2022年7月20日(水)

2022年7月20日(水)


『主を待ち望む者は……歩いても疲れない。』イザヤ書40章31節


歩くことに、特別な興奮はない。
しかし、歩き方一つで、からだのあらゆる部分が安定的に機能しているかどうかが判定できる。

「歩いても疲れない」というのは、最高の力を生み出せる状態であることを意味している。

聖書では「歩く」ということばは、その人の人格を表すものである。
「ヨハネは……イエスが歩いて行かれるのを見て、『見よ、神の子羊』と言った」

聖書は抽象的な言い方を全くしない。
どんな場合でも、活き活きとした現実感を伴っている。
神が「霊的であれ」とは言わず 、「わたしの前に歩みなさい」と言われたのもその一例である。

自分の肉体や感情が不健全な状態にあると、私たちはいつでも人生に刺激を求める。
人の目があるところでは、聖霊が働いておられるかのように装い、感情においては、妄想や不道徳に向かう。
そして霊的な面では、「鷲のように、翼を広げて上る」という興奮だけを求めて、霊性が破滅の危機に瀕する。

神のご臨在を確かなものにしようと、特定の場所に行く必要はない。
必要なのは、常に自分の前に主を置くという決意だけである。

私たちに問題が起きるのは、主が臨在しておられるという現実を受け入れない時である。
「それゆえ われらは恐れない。
たとえ……山々が揺れ 海のただ中に移るとも」という詩篇作者の経験は、神が現実にともにいてくださる、という真実に根ざすときに、私たちのものになる。

それは、単に気づくという程度のものではなく、「神はずっとともにいてくださったのだ」という現実感のことである。

人生の危機に際して導きを求めることは、当然必要である。
しかし、「このこと、あのことについて私を導いてください」と絶えず言い続けることは不必要でありたい。

もちろん神は導いてくださる。
それどころか、その導きはもう始まっているのだ!

もし私たちの日常の判断がみこころに沿っていなければ、神はそれに気づかせ、ストップをかけてくださる。
その場合には、私たちのほうで動きを止め、主のご臨在による導きを待てばよいだけである。

God Bless You!!


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