2022年5月3日(火)

2022年5月3日(火)


『あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。』エペソ人への手紙6章18節


他の人のためにとりなしを続けていくと、神への従順のゆえにとりなしをしているのにもかかわらず、それが思ってもみなかった犠牲を相手に強いていることに気づく場合がある。

私たちの祈りに応えて、神がその人たちを未経験の高みへと少しずつ引き上げてくださっているのに、同情の思いからとりなしの祈りを始める、という危険である。

神が人々に抱いておられる関心を共有するのをやめ、同情を向けるようになっていくと、神との生きた関係はすでに失われているのである。

その人たちへの同情と心配がかえって妨げとなってしまったわけだが、これでは暗に神を非難しているのと変わらない。

神を心から信頼していなければ、力あるとりなしの祈りは不可能である。
ところが、私たちの個人的な同情や先入観こそは、私たちと神との粋を弱める最大の原因なのである。

神と一体になっていなければ、そもそもとりなしは成り立たない。
ところが、私たちが神と一つになることをやめてしまうとしたら、その原因は罪ではなく、他の人に対する同情にある。

罪によって私たちと神との関係が妨げられることは考えにくいが、同情ならば大いにありうることである。
自分自身への同情、または他者への同情が高じて、「そのようなことが起きてたまるものか」と私たちは思ってしまうのである。

その瞬間、私たちと神との間の生きた関係は切れてしまう。

生きたとりなしの祈りをしていくと、「哀れで大切な自分」のために祈る時間も気持ちも起きない。
自分のことを考える思いを締め出す必要もない。
締め出そうにも、そこにないからである。

また、あなたが人々に対する神のご関心を完全に、またすっかり共有しているからである。

神が人々の人生に関して私たちに洞察を与えてくださるのは、私たちがとりなしをするためであって、決してあら捜しをするためではない。

God Bless You!!


a:38 t:1 y:0