2022年5月1日(日)

2022年5月1日(日)


『私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。』コリント人への手紙第二5章7節


神が気遣ってくださっていることを、一定期間、私たちは意識している。
ところが、神が私たちを困難な働きに用い始めると、私たちは哀れな表情を浮かべ、試練や困難に愚痴をこぼす。

それでもなお、神は私たちを、脚光を浴びることのない無名の存在として、なすべきことに取り組ませようとされる。

だれもが、できることなら、霊的に無名のままでいたくはないと思う。
神がこのように天を閉ざされたように見えても、私たちは自分がすべきことをしていくことができるだろうか。

私たちの中には、金色に輝く光輪を頭上に戴き、霊感の尽きない聖徒となって、神の聖徒たちにお世話をしてもらうことを願う人が必ずいるものだ。

しかし、お高くとまった聖徒ほど役立たないものはない。
そのような人はむしろ異常であり、日常生活に堪えないだけでなく、神とは似ても似つかない存在である。

私たちが今ここにいて世の仕事をしているのは、見習い中の天使としてではなく、人間の男女としてであり、自分を無限に超えた大きな力に支えられて、この世の動揺や不安に耐えていくためなのである。

なぜなら、私たちは新しく生まれたからである。

もし、霊感を受けたあの稀有な瞬間に何度も戻ろうとするなら、それこそは、私たちが求めているのが神ではないという何よりのしるしである。

神が私たちのもとに来て語りかけてくださった瞬間に執着し、神にその再現を要求しているだけである。
しかし、神が私たちに求めておられるのは、信仰によって歩むことなのである。

「神が現れてくださらなければ、これ以上は何もできない」という態度をとる人が私たちの中にどれほど多くいることだろうか。

神がそうされることは決してない。
霊感がなくても、また神が突然触れてくださらなくても、私たちは自分の足で立ち上がらなければならないのである。

そうすると、驚くべきことが起こる。
「ああ、神はずっと一緒にいてくださったのだ。
それに私は少しも気づいていなかった!」と私たちは叫ぶのである。

稀有な瞬間を求めて生きてはいけない。
それらは「サプライズ」(思いがけないプレゼント)なのだ。

神が直接私たちに触れて霊感を与えてくださるのは、それによって私たちが迷う危険がない、と判断された場合だけである。

霊感を受ける瞬間を決して標準としてはならない。
自分がすべきことをこなしていくことこそが、私たちの標準なのだから。

God Bless You!!


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