2022年3月7日(月)

2022年3月7日(月)


『これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。』ローマ人への手紙8章37節


パウロは、ここで、神の愛から聖徒を引き離す可能性のあるものについて語る。
しかし驚くべきことに、神の愛と聖徒との間に割り込めるものは何一つない。

パウロがこの箇所でふれていることは、どれも私たちと神の親密な交わりを邪魔し、私たちを神から遠ざけてもおかしくないものばかりである。
しかし、それらのどれも、霊的な次元においては、神の愛と聖徒のたましいの間に割り込むことはできない。

キリスト信仰の根底にある土台は何か。
それは、私たちには受けるに値しない、カルバリの十字架に示された限りない神の愛の奇跡である。

その愛は、私たちの功績で得られるようなものではないし、そのようにして得られることは永遠にわたってありえない。

パウロはこれこそが「これらすべてにおいても、私たちは圧倒的な勝利者である」理由であると言った。
私たちは、自分がなぎ倒されるしかないと覚悟した後に、喜びにあふれる圧倒的な勝利者なのである。

ごく普通の泳ぎ手が怯えるような巨大な波も、それを見事にくぐり抜けるサーファーにとってはこたえられないスリルを生み出す。

私たちを取り巻く状況に置き換えてみよう。
私たちがどうしても避けようとするもの、あるいは戦う相手とみなすもの、たとえば、患難や苦しみ、あるいは迫害は、実は私たちの中に特別の喜びを生み出してくれるものにほかならないのである。

「これらすべての中にあっても——これらすべてにかかわらず、ではなく、これらのただ中にあっても——私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者」なのである。

聖徒が主の喜びにあずかるのは、患難があるにもかかわらず、ではなく、患難があるゆえなのである。
パウロはこうも述べている。
「私は……どんな苦難にあっても喜びに満ちあふれています」と。

困難をものともしない人生の輝きは、一時的なものではなく、不変の神の愛が土台となっている。
人生に起きる様々な経験は、それが単調なものであろうと恐るべきものであろうと、「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から引き離す」という点において、完全に無力なのである。

God Bless You!!


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