2022年2月27日(日)
『その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。』ヨハネの福音書4章11節
「この井戸は深いのです。」
それどころか、サマリアの女が知るよりもはるかに井戸は深かった!
人間性の、また人のいのちの深さ、そしてあなた自身のうちにある多くの「井戸」の深さを思ってみるがよい。
あなたはイエスのみわざを制限し続け、イエスが何もできないようにしてこなかったか。
あなたの心に底知れぬ深い悩みや過去の傷という「井戸」があったとしよう。
そこにイエスがやって来て、「心を騒がせてはならない」と言われたとする。
するとあなたは肩をすくめて言う。
「でも、主よ、井戸はあまりにも深いのです。
ですからあなたといえども、この井戸から平安と慰めを汲み出すことはできません」と。
たしかにそのとおりである。
イエスは人間性という井戸から何も汲み出すことはせず、天からそれらをもたらしてくださるからである。
私たちは、神にしていただいた過去の経験を思い出して、イスラエルの聖なる方に制限をかけている。
そして「神にこんなことをしていただけると期待できないのは当然だ」と言うのである。
しかし、神の全能性を試すようなことであるからこそ、神は成し遂げてくださると、イエスの弟子である私たちは信じるべきなのである。
神が全能であることを忘れた瞬間、私たちは神のみわざを乏しいものにしてしまっている。
乏しい原因は私たちにあるのであって、主にはない。
私たちは慰め主、同情者としてのイエスのもとには行く。
しかし、全能者としてのイエスのところには行こうとしないのである。
クリスチャンといいながら、残念な実例がそれなりにあるのは、全能者としてのキリストを信じていないからである。
クリスチャンとしての特徴や経験があっても、イエス・キリストに対する全面的な明け渡しができていないのである。
難しい状況に立ち至ると、「主であっても、どうすることもできない」と言って、私たちは主のみわざをみずぼらしいものにする。
そして苦労して井戸の深みに汲む物を下ろし、自分のための水を手に入れようとする。
しかし、「やっぱりだめだ」と、あきらめて腰を下ろしてはならない。
イエスを見上げさえすればできる、とあなたには分かっているのである。
たしかに自分の至らなさという井戸は深い。
しかし、努力してみようではないか。
自分から目を離し、主を見上げる努力を。
God Bless You!!
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