2022年2月26日(土)

2022年2月26日(土)


『その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。」』ヨハネの福音書4章11節


神のみことばは、実に素晴らしい。
しかし、まさか実生活の細かなところまでそのとおりにせよ、と神が求めておられるわけではない」と思ったことはないだろうか。

イエス・キリストの真価に基づいてイエスと向き合う段になると、私たちらは敬虔にふるまいながら尊大な態度をとる。

「あなたの理想は高く、感銘を受けずにはいられませんが、あまりに現実離れしていて実行できません」と。
私たちそれぞれが、イエスに対してそう考えている。

このようなイエスに対する不安や心もとなさは、私たちが神との関係を話題にするときに向けられる、からかい半分の質問がきっかけである。

「生活に必要なお金はどこで得るつもりか。
どうやって生計を立て、だれが生活の保証をしてくれるのか」と。

あるいは、私たち自身がきっかけとなる場合もある。
この問題を主に解決していただくのは少々難しいのではないか、と。

「主に信頼せよ、と言うのはまことに結構。
けれども、人は生きていかなければならない。
それなのに、イエスは汲む物を持っておられない。
必要な物を与えるための手段が何もないではないか」と私たちは言うのである。

「私は自分に不安を持っているだけで、イエスに対してではない」という敬虔ぶったごまかしには注意しなければならない。

私たちは自分に不安を抱いたことなど一度もないはずだ。
自分にできること、またできないことが、私たちはちゃんと分かっているのである。

ところが、私たちはイエスに対しては、不安を感じる。
そればかりか自分にはできないことが主にはできる、と考えるだけで私たちの自尊心は傷つくのである。

このような不安が湧くのは、私が自分の内面をひたすら探ることによって、イエスにどうしてそのようなことが可能なのか知ろうとするからである。
私の不安は、自分の劣等意識の深みから湧いてくる。

もし、自分の中にそのような不安があることに気がついたら、それを光のもとに携え来て、包み隠さず告白することだ。

「主よ、私はあなたに対して不安を持っておりました。
あなたの能力を信頼せず、自分自身の能力に頼っていました。
それだけでなく、自分の限られた理解にとらわれ、あなたの全能の御力を信頼していませんでした」と。

God Bless You!!


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