2022年2月19日(土)

2022年2月19日(土)


『起きよ。輝け。』イザヤ書60章1節


単調で骨の折れる仕事に対処するときには、あたかも神がおられないかのようにして第一歩を踏み出さなければならない。

神の助けを待っても無駄である。
助けてくださらないからである。

ところが、私たちがいったん「起き上がる」と、なんと神がそこに来ておられることに気づく。
神が励ましてくださるのであれば、私たちが率先して行動するかどうかは、私たちの従順にかかっている。

私たちは何もせずに横になったままでいてはいけない。
私たちが「起きて輝く」、すなわち、行動を開始するなら、単調で骨の折れる仕事が、神によって全く別の素晴らしいものに変えられるのである。

そのような仕事ほど、人格の真の値打ちを判定する試金石はない。
それは、理想的な仕事とはおよそかけ離れている。
それはつらく、つまらなく、疲れ、割に合わない仕事である。

したがって、それを目の前にすると、霊的状態があっという間に測られ、私たちの霊性に偽りがないかどうかが分かってしまうのである。

ヨハネの福音書13章を読んでみると、人が最も嫌がる仕事を、あろうことか受肉された神がしておられる様子が描かれている。

漁師たちの足を洗われた主は、「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません」と言っておられる。

骨の折れる仕事が神の光で輝くためには、神からの激励が必要である。
同じ仕事でありながら、それをする人、またその取り組む姿勢によって、その仕事は永遠に聖別されたものとなる。

その仕事自体は、ごく普通の日常的なことかもしれない。
しかし、それがどうなされたかによって、歴然とした差が生じるのである。
主が私たちを通して何かをされるときには、常にそれを素晴らしいものに変えてくださる。

主は私たちと同じ肉体をとり、それを素晴らしいものに変えてくださった。
それゆえに、今や、あらゆる信仰者のからだが聖霊の宮になっていることを忘れてはならない。

God Bless You!!


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