2022年12月25日(日)
『「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」とう意味である。』マタイの福音書1章23節
《歴史における主の降誕》
「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます」。
イエス・キリストはこの世の中へと(into)お生まれになった。
この世から(from)お生まれになったのではない。
イエスは歴史の中から出現されたのではなく、外の世界から歴史の中に入って来られた。
イエス・キリストは、人類が誇ることのできる最高の人間などではない。
人類にとって説明のつかない存在なのである。
イエスは、神になりつつある人ではない。
受肉された神、すなわち外の世界から来て、肉体をとられた神なのである。
そのご生涯は、最も卑しい入り口から始まったが、この上なく気高く、この上なく聖いものであった。
私たちの主のご誕生は、神のご来臨だったのである。
《私の中に生まれたもう主》
「私の子どもたち。
あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」。
主は外部から人間の歴史に入って来られた。
それと同じように、主は私の中にも外から入るほかはない。
私は自分の人生を、神の御子を迎える「ベツレヘム」とすることに同意しただろうか。
上から新しく生まれないかぎり、私が神の国に入ることはできない。
それは肉体の誕生と全く異なる。
「あなたがたは新しく生まれなければならない」というのは命令ではない。
それは基礎をなすべき事実なのである。
新しく生まれたことを示す特徴は、私が自分自身を神に献げ尽くし、その結果、私のうちに「キリストが形造られる」ことである。
キリストが形造られるとすぐに、キリストのご性質が私を通して活動を始めるのである。
《肉体に現れた神》
これこそは、イエス・キリストの贖いにより、あなたにも私にも、深遠な意味において可能となったことである。
God Bless You!!
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