2022年12月16日(金)
『神のすべての武具を取りなさい。……どんなときにも……祈りなさい。」エペソ人への手紙6章13、18節
神との交わりを妨げるものとは格闘しなければならない。
また、他の人のために祈る時も格闘しなければならない。
しかし、祈る時に神を相手に格闘するというのは、聖書的に正しくない。
神を相手に格闘しようものなら、あなたはあのヤコブのように生涯、不自由を嘆くことになる。
仮に、神があなたの望まないように事を運ばれたために神に抵抗するなら、私のももの関節を外してください、と神に願うも同然である。
神の導きに抵抗して不自由を来すことになってはならない。
むしろ、神の御前で、世の様々な難題と格闘し、神によって「圧倒的な勝利者」となるべきである。
神の御前での格闘は、神の国に衝撃を与えずにはいないのだ。
「祈ってほしい」とあなたに頼まれても、私がキリストにあって完全でなければ、私の祈りには何の効力もない。
しかし、キリストにあって完全であれば、私の祈りは常に勝利をもたらさずにはいない。
祈りが有効なのは、「神のすべての武具を身に着けなさい」とあるように、私たちが完全に整えられている場合だけなのである。
神がお定めになったことと、神があえて許されたこと、つまり私たちに対するみこころを成し遂げるための摂理とは常に区別しておかなければならない。
神の定めは不変である。
しかし、神が許容されたみこころ、つまり神があえて私たちの人生に起きることを許されたものは、御前で私たちが格闘すべきものなのである。
神の消極的なみこころにどう応答するかによって、私たちは神の定めに到達できるのである。
「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となる……」。
ここで言われているのは、神の定めに、またキリスト・イエスにある神の召しに真実を貫く人のことである。
神が許容されたみこころは、だれが本物の神の子であるのかを試す試金石のようなものである。
優柔不断に、よく考えもせず「それが主のみこころだ」と言ってはならない。
私たちは神を相手に格闘するのではない。
事象と戦うのである。
無気力になってあきらめてはならない。
むしろ、誉れある戦いに身を投じよ。
そうすれば、神の力を一身に受けている自分に気がつくことだろう。
God Bless You!!
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