2022年12月11日(日)
『それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て……なさい。」』マタイの福音書16章24節
もって生まれた自我は、真のいのちを包む硬い外皮の役割をしている。
自我によって他者は押しのけられ、人は分離し、孤立していく。
これが子どもの第一の特徴であることは合点がいく。
ところが、自我を真のいのちと間違えると、他者との交流を失ってしまう。
自我という外皮は、真のいのちを守るために神が設計された自然の覆いである。
しかし、真のいのちが神と交わるためには、自我がとどまる理由はもはやない。
自我はあたかも真のいのちであるかのようにふるまう。
それは情欲が愛のふりをするのと同じである。
神は人間の性質をご自身にかなうものとして造られたが、自我は人間性を堕落させてしまうのである。
自我は、独立心と自己主張がその特徴である。
自我のままに生きようとすることほど、私たちの霊的ないのちを阻害するものはない。
もし「私には信じられない」と言うとしたら、その理由は、自我にはそもそも神を信じることができないからである。
それに対し、真のいのちは神を信ぜずにはいられないものである。
神の御霊が働かれるときに、自分をよく観察してみることだ。
御霊は、自我を限界まで追いつめる。
その結果、あなたは「従うつもりはない」と言うか、または降参して、自我という外皮を破り、真のいのちが現れるようにするかの二者択一をせざるを得なくなるのである。
聖霊はいつも一つの問題に焦点を絞られる。
あなたが「兄弟」と和解するのを拒むようにさせているのは、あなたの生まれながらの自我である、と。
神はあなたをご自身と一致させたい、と願っておられる。
しかし、あなたが自分の権利を放棄しないかぎり、神にはそうすることができない。
「自分を捨て」というのは、自分が神から独立して歩む、という権利を捨てることにほかならないからである。
しかしそのようにしたなら初めて、真のいのちは成長する機会を得るのである。
God Bless You!!
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