2022年11月9日(水)
『今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。』コロサイ人への手紙1章24節
クリスチャンの働き人は、聖なる「仲人」とならなければならない。
それは自分が、主とその贖いの現実に、こよなく一体化され、キリストが自分を通して絶えず新しいいのちを提供することができるためである。
一個人の性格上の長所が他の人に追加されることについて言っているのではなく、ほかならぬキリストご自身の臨在感が働き人の生活のあらゆる面からにじみ出てくることについて言っているのである。
新約聖書が伝えるとおりに、私たちの主のご生涯と死に関する歴史上の事実を説くときに、私たちのことばは聖なるものとされる。
神はご自身の贖いをもととして、耳を傾ける人の中に、他の方法では決してできなかったものを創り出すために、そのことばを用いてくださるのである。
もし私たちがイエスご自身に関する神の啓示の代わりに、贖いが人生にもたらす好ましい結果を説くだけなら、聴衆は新生を経験することなく、宗教心が洗練されるだけで終わり、神の御霊の証しが伴うことはない。
そのような説教は神と関わりのない領域に属するものだからである。
私たちは、神にしか創り出せないものを、神の真理なら創り出せる、と宣言するにあたって、はたして自分が神とこよなく一致した生き方をしているかどうかを確認しなければならない。
「なんと素晴らしい性格の持ち主だろう!なんと魅力的な人だろう!なんと素晴らしい洞察だろう!」と、人がほめそやされるなら、神の福音が注目される機会はいったいどこにあるのだろうか。
そのような伝え方では相手に何も伝わらない。
メッセージではなく、メッセンジャーに注目が集まっているだけだからである。
もしその人の性格が魅力的であるなら、その人に注目が集まる。
しかし、働き人が主ご自身と一体になっているなら、イエス・キリストにしかできないことに注目が集まる。
人間を誇ることは危険なことである。
しかし、私たちは主を高く掲げるべきである、とイエスは言われる。
God Bless You!!
a:16 t:1 y:0