2022年11月29日(火)
『御霊はわたしの栄光を現されます。』ヨハネの福音書16章14節
今日(*今から100年ほど前のチェンバーズの時代)の敬虔主義運動には、新約聖書に書かれているような荒削りで躍動する現実感がどこにもない。
イエス・キリストの死がまるで必要でないかのようである。
敬虔な雰囲気や祈り、それに信心深さがあれば事足りてしまう。
このようなたぐいの経験は、超自然的でもなければ、奇跡的でもない。
神の受難を不要とし、「子羊の血」に染まってもいない。
真正であることを示す聖霊の証印もない。
人々が畏怖の念に打たれて、「これこそ全能の神のみわざだ!」と認めざるを得ないしるしもない。
しかし、神がなされたみわざこそが新約聖書の主題であり、それ以外にはない。
新約聖書で、クリスチャンの経験として共通しているのは、イエス・キリストご自身に対する個人的で、情熱にあふれた献身である。
それ以外の、いわゆるクリスチャン的な経験と言われるものはどれも、イエスご自身にそもそも関心がない。
新生もなく、キリストが治める神の国に生まれるということもなく、キリストを自分の模範とする考え方があるだけである。
新約聖書では、イエス・キリストは模範であるよりずっと以前に、救い主である。
今日、イエス・キリストは一宗教の象徴的存在、または一つの模範として扱われるにすぎない。
確かに模範ではあるが、それよりはるかに偉大な御方である。
キリストは救いそのものであり、神の福音そのものである。
「その方、すなわち真理の御霊が来ると、……わたしの栄光を現されます」とイエスは言われた。
新約聖書に示された啓示に心から従うなら、神から聖霊という賜物をいただく。
すると聖霊は、イエスがなされたことの解き明かしを始める。
神の御霊は、イエス・キリストが私のためにしてくださった客観的な事実のすべてを、私自身の中で起きたこととして教えてくださるのである。
God Bless You!!
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