2022年11月25日(金)
『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。』ガラテヤ人への手紙6章14節
人は新生すると、様々な感情や、様々な生活環境からの影響を受けて、信仰の一貫性を失ってしまいがちである。
しかし使徒パウロの場合は、強く、確かな一貫性がその生き方の根底にあった。
そのために、外側の環境が気ままに変化しようとも、不安を抱えることがなかった。
神に根ざし、神に基礎を置いていたからである。
私たちのほとんどは霊的な一貫性を欠いている。
それは外面的な一貫性のほうに気を取られているからである。
外部の人々に向かってどのように語っていたかを比べると、パウロは常に「地下階」を住まいにしていたのに対し、パウロの批評家たちは、見栄えの良い「地上階」に住んでいた。
つまり、常に人からの評価を気にしていたのである。
しかも、この両者には接点というものがなかった。
パウロが一貫していた秘訣は、基礎部分にあった。
パウロが全くぶれずにすんだのは、世を贖うために神が経験された苦悩、すなわち、キリストの十字架という、すべてにまさる土台があったからである。
自分が何を信じているのか、もう一度自分のことばで述べてみよ。
次にそこからできるだけ多くのものを取り除き、キリストの十字架という根本に立ち返れ。
世俗の歴史においては、キリストの十字架は実に些細な出来事として扱われている。
しかし、聖書の視点から見ると、世界中の帝国を合わせたよりも重要である。
もし私たちが福音を説くにあたって、十字架で神が味わわれた苦悩をじっくり思い巡らすことがないとすれば、その宣教からは何も生まれることはなく、神の力が人に伝わることもない。
人の興味は引いたとしても、無力である。
しかし、十字架を説くなら、神の力が解き放たれる。
「それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます」とあるとおりである。
God Bless You!!
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