2022年11月18日(金)
『ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。』ヨハネの福音書8章36節
もしごくわずかでも古い自我のうぬぼれが残っていると、「私にはできません」と必ず言うものである。
しかし、霊的に新しくされた人は、決して「私にはできません」とは言わず、周囲のあらゆるものから学ぼうとしてやまない。
私たちの霊はそのように造られている。
つまり、神のために大きなことができるように設計されているのである。
しかし、罪や古い自分の妨げによって私たちは神に近づけないでいる。
神は私たちを罪から解放してくださるが、古い生き方から自分を解放するのは、実は私たちの責任である。
それは生来の生き方を差し出し、神にいけにえとして献げ、ついには服従によって、神にそれを霊的ないのちに転換していただくためである。
私たちの霊的ないのちを育むにあたって、神は私たちの生来の古い自我には目もくれない。
それどころか、神のご計画は生来の生き方を一刀両断にしてしまう。
私たちは、神に反抗して「そんなことは私にはできません」と言うのではなく、神の側につき、神に協力するように心がけなければならない。
このような訓練を自分に課すのは神ではく、私たち自身である。
神ではなく私たちがすべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させるのである。
「ああ、主よ、私は雑念を払うことができずに困っています」と言ってはならない。
雑念を払えないことで悩む必要はない。
古い自分が強権的に命じることに、もう耳を貸さなくてもよい。
そこから自由になって、霊的な生き方に切り換えるのだ。
「御子があなたがたを自由にするなら……。」
ここで、「御子」を「救い主」ということばに差し替えてはならない。
救い主は私たちを罪から解放してくださった。
ここで言う自由は、パウロがガラテヤ人への手紙2章19節、20節で「私はキリストとともに十字架につけられました」で述べている自由のことである。
パウロの生来の自分は砕かれ、新しい自分が主に結合された。
吸収されたというより、一体となったのである。
「あなたがたは本当に自由になるのです。」
本質的に、また内面においても自由、という意味である。
私たちはとかく、自らの力を頼みとしやすい。
しかし本当はイエスと一つにされた結果としての力に拠り頼むべきなのである。
God Bless You!!
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