2022年10月3日(月)
『この種のものは、祈りと断食によらなければ、何によっても追い出すことができません。』マルコの福音書9章29節(英訳)
「弟子たちがそっと尋ねた。
『私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか』」。
その答えはイエス・キリストとの個人的な関係の中にある。
この種の悪霊は、一心不乱に主に心を集中しなければ出て行くものではなかったのだ。
私たちも、弟子たちがそうであったように、いつまでも無力のままでいることがある。
それはイエスの御力に焦点を合わせて神のわざを行おうとせず、自分の性質に基づいて引き出された考えに従ったためである。
私たちは主をよく知らないまま熱心に主のために働こうとし、かえって神の名誉を汚しているのである。
困難な事例に直面し、表面的には何の変化が起こらなくても、必ずその問題から解放される時が来ると分かるのは、イエス・キリストに焦点を合わせているからである。
これこそがあなたの奉仕のあり方である。
すなわち、イエスご自身と自分との間に余計なものが入らないように気を配ることである。
今、そういうものはないだろうか。
もしあるならば、それを突き抜けて行かなければならない。
苛立ちを覚えながら無視するのではなく、「変貌の山」にまた登ろうとするのでもなく、地味にそれと向き合い、そのただ中を通って、イエスご自身の御前に進み出ることである。
そうすると、その問題、またそれに関わってあなたが経験したことすべてのことのゆえに、イエス・キリストと顔と顔を合わせてまみえるまで知ることもなかったはずの栄光が主に帰されることになる。
私たちは「鷲のように、翼を広げて上ることができる」ようでなければならない。
しかしそれと同時に、下って行くすべも知らなければならない。
聖徒の力は、下に降りるとき、そして低地で生きるときに発揮されるからである。
パウロは「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」と言った。
パウロが「どんなことでも」と言っていることの大部分は、へりくだることなしにはできないものであった。
しかし、へりくだることを拒んで、こう言うこともできないことはない。
「いいえ、結構です。
神とともに山頂にいるほうがはるかにまさっていますから」と。
私は、イエス・キリストが生きた現実であることを踏まえて、ありのままの現実に向き合っているのだろうか。
それとも、難しい現実によって主への信仰がすっかり影を潜め、慌てふためいているのであろうか。
God Bless You!!
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