2022年1月31日(月)

2022年1月31日(月)


『神の福音のために選び出され…。』ローマ人への手紙1章1節


そもそも私たちが神に召されたのは、聖人になるためではなく、神の福音を告げ知らせる者となるためである。
何よりも大切なのは、神の福音が永続的な現実として認知されることである。

永続的な現実とは、人間の善性や聖さのことではく、天国や地獄のことですらない。
贖いこそが現実なのである。

これを把握する必要こそ、今日のクリスチャンの働き人に不可欠なものである。
働き人である私たちは、贖いをおいてほかに永続的な現実はない、という啓示に精通していなければならない。

個人としての聖潔は贖いがもたらした結果であって、贖いの理由ではない。
もし私たちが人間の善性に信頼を置くようなことがあれば、試練が来たとき、たちまち行き詰まってしまうことだろう。

パウロは、自分自身を選び分けたと言わず、「私を選び出してくださった神」と言っている。
パウロは自分という一人の人格に過剰な意識を持っていたわけではない。
同様に、自分自身の聖潔に着目しているかぎり、私たちは贖いという大きな現実に近づくことすらできない。

働き人が失敗するのは神を知ろうとする願望より、自分自身の聖潔への願望を優先しているからである。

「贖いは現実である、という粗野な話を持ち出さないでほしい。
人間の堕落と腐敗はどうしようもない。
私が望んでいるのは、どうしたら神に私をもっとましな人間にしてもらえるかということだけだ」と述べるなら、神の福音の現実は、まだ私にかすりもしていないことの証拠である。

向こう見ずと言われるほど、神に自分の身を任せてはいないのだ。

自分の人格向上に関心が向いているかぎり、神は私を解放しようにも解放できない。
パウロは自分を意識していなかった。

パウロは、向こう見ずと言われるほどに自分を捨て、全面降伏し、一つの目的のために神によって分かたれた。
ただ神の福音を告げ知らせるという目的のために。

God Bless You!!


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