2021年9月6日(月)の手紙

2021年9月6日(月)


『もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。』ヘブル人への手紙3章14節


すばらしい説教をしてくれる牧師がいたら私も信仰に励むのだがとか、もっとしるしや不思識が行われたなら信仰するけれど、そういうものを見ることができないから信仰できないのだ、と考える人がいる。

信仰というものは、人によってできるものではない。
だれがどんなにすばらしい信仰の証しをしてくれても、それをながめているだけではその人の信仰にはならない。

神を信じていくには、決断することが必要なのである。
そこで語られていること、示されていることを信じていく決断が私たち自身の中に起こらなければ、私たちの心はいつも迷っているのである。

信仰とは私と神との関係であり、私が神に従い、神に自分の生涯をかけていくことなのだ。
もしほんとうに神に自分をかけ、ささげていくなら、どんなつまらない自分であったとしても、神は用いてくださる。

将棋の名人が優勝するのは、将棋の駒が立派だからではない。
駒の良し悪しではなく、さし手によって決まるのである。

私たちは駒である。
私という単なる人間の感情や利害や思いで進んでいる間は、その駒がたとえどんなに高価なものであっても、決して勝利できない。

たいせつなことは、だれに進められ、だれにさされて自分の人生を歩んでいくかということである。
この決断こそ、私たち人間の責任なのである。

駒はさし手のままに進まなければならない。
絶対にさし手を信頼しなければ、私たちはその栄光にあずかれないのである。

だから与えられた確信というものをしっかり持ち、最後まで持続することが最もたいせつなのだと、御言葉は教えているのである。

ここで必要なことは「きょう」ということである。
あす決心しようというのではない。

「きょう、み声を聞いたなら、(荒野における試錬の日に、)神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。

私たちは神の御声を聞いても、きょうは都合が悪いと言って、あすに延ばそうとする。
けれども、あすはいつまでたってもあすなのである。
私たちにとってあるのは、きょうだけなのである。

シモン・ペテロやアンデレは、イエスに出会ったとき、ただちに舟と網を捨ててイエスに従った。
帰って、家族と相談して、みんなで投票した結果を見てからあなたに従いますなどと言っていたら、心がふらついて、もうやめておこうということになってしまう。

きょう、いま。
私たちにとってあるのは「いま」だけなのだ。
あすはない。

だれがいったい、あすの生命が私にあることを確信できるだろうか。
きょうという時をたいせつにしていきたい。

God Bless You!!


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