2021年9月21日(火)
『富んでいる人たちよ。よく聞きなさい。』ヤコブの手紙5章1節
1節から5節までは富んでいる者への忠告である。
忠告の基準は、「あなたがたは、終りの時にいるのに」という「終りの時」である。
それはイエス・キリストを信じた者だけが知ることを許された事柄である。
世の人は、この世の状態がいつまでも続くと思っている。
キリスト者はそうではない。
世に来られ、昇天されたキリストを信じ、いま私たちがいるのは、再び来られる主に備えていることを信じている。
そして自分を、「問われている民」であると信じている。
いまを、神の愛に対してどのような生活をしているかを問われている時代だと信じ、生きているのである。
この「終り」は時間的な終わりでなく、人間の生存への本質的な問いかけである。
神の愛への責任、それは恵みに応答していくことである。
ブルンナーは、この責任のことを答責と言っている。
どこへ行ってもゆるされることのない罪、滅ぶべきこの身が、キリストの十字架を仰ぐことによってゆるされるご愛、御恵み。
このことを忘れ、ただ私腹をこやしたり、自分の楽しみだけを追求しているならば、これは預かった金を着服しているようなものであり、まさしく公金横領であって、神の前で強く責められなければならないことである。
そこにキリスト教では、なさざるの罪になした罪と同じ重さがあるというゆえんがある。
隣人を自分のように愛さなかったことが、人を殺したり姦淫したりするのと同じように問われなければならないのは、私たちが神から豊かな恵みをいただいているからである。
この主の恵みにどうこたえるのかという問いを前にして、富める人は、天に宝につむことなど一つのおとぎ話ぐらいにしか思わず、「なお宝をたくわえている」とヤコブは言う。
この「なお」という言葉に、富める者の愚かさを見る。
彼らの地上の宝は食い尽くされると、ヤコプは警告を発するのである。
「今知らず、後知るべし」。
神のもとへ行かなければわからないことがたくさんある。
信仰生活をすればするほど、神に依り頼めば頼むほど、なぜこうなのだろうかということが多くなってくる。
どうしてもわからない、承認できない、矛盾に満ちたものであっても、「今知らず、後知るべし」という神のご配慮を信じ、それが神の愛の中で行われていることを信じ抜いていくのである。
それが神を中心とすること、神を神とすることである。
ここではじめて、私たちに祈りが生まれるのである。
神を神としないところにあるのは祈りでなく、ああしてほしい、こうしてほしいというつぶやきである。
私たちはつぶやきを祈りだと思いやすい。
祈りはどこまでも神の基準に自分を合わせていくことである。
サムエルが祈ったように、「しもべは聞きます。お話しください」の姿になっていくことなのである。
God Bless You!!
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