2021年8月25日(水)の手紙

2021年8月25日(水)


『宣教と教とのために労している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である。』テモテへの手紙第一5章17節


パウロは年若い伝道者テモテに向かって、牧会に対する一つの心がけを1節、2節に書いている。

「老人をとがめてはいけない。
むしろ父親に対するように、話してあげなさい。
若い男には兄弟に対するように、年とった女には母親に対するように、若い女には、真に純潔な思いをもって、姉妹に対するように、勧告しなさい」。

私たちはよく「裁くな」と言うが、これは、人が何をしても知らん顔をしなさいという意味ではない。
そうではなくて、その人の立場から言ってあげることである。

老若男女、それぞれに神は恵みを注いでおられる。
その神の恵みに立って自分を考え、人を考えていくことが、ほんとうの愛による忠告である。
非難でなく、批判となり、その人を形づくることになるのである。

教会における交わりは、何か物をあげたり、もらったりするようなことではなく、その人に対する勧告が言え、またそれを感謝して受け取ることができるところにある。

教会は、いつもイエス・キリストにある神の愛が生き生きしていてこそ、勧告もでき、互いに励ますこともでき、交わりも生まれてくるのである。
イエス・キリストを土台とした教会は、教会員すべてが共通の基盤に立っていることがたいせつである。

私たちは、イエス・キリストの恩寵のゆえに召し集められたのである。
イエス・キリストを第一とし、御心とあれば何ものをも捨てて生きていくところに私たちの信仰がある。
教会での交わりを云々する前に、その交わりの基盤ができているかどうかをよく考えなくてはならない。

「聖書は、『穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない』また『働き人がその報酬を受けるのは当然である』と言っている」。

私はこのことには二つの意味があると思う。

みな職業を持っている人の中から長老が選ばれ、牧師が選ばれるわけだから、その人は職業を捨てて、福音の宣教につくことになる。
だから、教会はその人を認めていかなければならない。

いま一つは、神のご用をしている者は、神が責任を持たれるということである。
人間の選びを通して神の選びを受けていくのであり、神がせよと言われたのだから、それに対して神が責任を持たれるのは当然のことであって、心配はないという意味である。

牧師は神に命じられているのだから、神が養ってくださるという信仰の自由がなければならない。
一方、教会が「あなたは神に選ばれて来て、神が責任を持ってくださるのだから心配するな」と言うのは、これはおかしいことである。

牧師は神の責任を信じ、全生涯をささげて働いていかなければならない。
同時に、牧師が不自由のないように、生活を保障していく責任が教会から生まれてこなければならない。

God Bless You!!


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