2021年8月22日(日)の手紙

2021年8月22日(日)


『すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝をささげなさい。』テモテへの手紙第一2章1節


イエスは私のために死んでくださった、しかし、あの人のためにも死んでくださった。

愛に根ざしたものでなければならないのだ。
り人のためにも死んでくださった。
そして、私にとって敵であるような人のためにも死んでくださった。

神の求めておられることは、すべての人が救われることであり、真理を知ることである。
そう思うとき、私たちはなんと狭い視野に立っているかに気づく。

日本じゅうの、あるいは世界じゅうの教会が、小さな教派意識や独善的排他的な考えや思いにとらわれていたのでは、神の祝福を広く豊かに受けていくことはできないのではないだろうか。

パウロが、「願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい」とすすめたのも、国家に対し、また現実の政治権力に対して、祈っていく責任のあることを教えたのだと思う。

私たちは無国籍者ではないから、日本が神の御旨に添った歩み方をするように祈り、御旨に添わないことは大胆に指摘していかなければならない。

「きい手をあげて祈ってほしい」と書いてあるが、当時、手を上げて祈ることはユダヤの習慣であった。
手が伴わない祈りとは、口先だけの祈りである。

「あなたがたのうち、だれかが、『安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい』と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか」とあるように、手を伴わない祈りは、偽善の祈りである。

そこには愛がない。
祈りは愛に根ざしたものでなければならないのだ。

また、祈りは自分に言い聞かせるものではない。
神に届いてこそ祈りなのであって、そうでなければひとり言である。
祈りは対話であると言われるのは、神に届くからである。

そういう点で、イエスの聖名によって祈りますという言葉の意味をかみしめなければならないのではあるまいか。

十字架のとりなしのない祈りは、私たちがどんなに熱心に祈っても神には届かない。
イエス・キリストにおいてゆるされた者として、はじめてその祈りが神に届くのである。

祈りはたわごとではない。
天と地とを支配され、その言葉をもって天地を創造された神に祈り、その神を動かすのである。
私たちは神に深い期待を持ち、神が聞いてくださるという確信を持ってこそ、祈りは成り立っていく。

「コルネリオよ、あなたの祈は聞きいれられ、あなたの施しは神のみ前におぼえられている」と書いてあるが、彼の祈りは、単なる言葉だけのものではなく、彼の祈りと施し、口と手が神に届いていたということである。

そういう意味で、清い手を上げて祈るということは、祈りの大切な性質を示しているのだ。

God Bless You!!


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