2021年7月12日(月)の手紙

2021年7月12日(月)


『わたしたちは、……神に対するキリストのかおりである。』コリント人への手紙第二2章15節


パウロはコリント教会のため、愛をこめて労したが、彼の善意はほとんど通じなかった。
教会は彼に対する誤解で満ちていた。

教会で御言葉が語られ、それが聞かれるためには、語る者と聞く者との間に信頼関係がなければならない。
しかしそれは、榎本という人間個人への信頼ではない。
こんな人間を信頼していたのでは、失望以外にない。

そうではなく、神がこの人を私の牧者として遣わされたということへの信頼である。

よくあの牧師は学問があるとか、立派な人だとか聞いたりするが、これは非常に危険なことである。
確かにすばらしい面もあるかもしれないが、同時に欠陥もあるのが人間である。

さらに、人間には影がある。
その影は明るさに近づけば近づくほど、濃い影となってあらわれる。
人間の暗さ、欠点、弱さは、神に近づくほど鮮明になってくる。

だから牧師を見るのではなく、牧師を遣わされたかたを見なければ、人間の言葉を神の言葉として受け取っていくことはできない。

パウロは「いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか」と言っているが、人間が神の言葉を語るというのは、なんとしても無理な話である。
語っているのは人間であり、人間の言葉である。
その人間の言葉の中に、神の言葉を聞き取るのである。

これが、説教を聞くことなのである。

パウロが、コリント教会に対して言っているのも、結局は一つ一つの問題の処理ではなく、これらのものを通して彼と教会との信頼関係が生まれることを願っているのである。

教会員が、彼を神が召し、福音を伝えさせたのだと確信する。

この間柄になることを切望しているのだ。

15節に「わたしたちは、……キリストのかおりである」とある。
自分自身をキリストの香りと言うのは、決して自分を誇ったのでなく、キリストが自分をこのような者、御言葉に仕える者にしてくださったということである。

クリスチャンの生活は、「私がこうしました、ああしました」ではなく、「キリストがこうしてくださった」という生活である。
これが証しである。

キリストに属した以上、私たちはみな主から何かしら与えられている。
その、していただいたこと、与えられたものを語ることが証しなのである。

よく経歴を証しと取り違える人がいる。
だれそれに誘われ、いつ教会へ行き、何月何日受洗しました……。
これは自分の履歴である。

仮に経歴を語っても、その中で主がどのように捕らえてくださったかがなければならない。
証しの主語は神だからである。
それが私たちをして、パウロが「キリストのかおり」と呼んだものとなさしめたのである。

God Bless You!!


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