2021年6月7日(月)の手紙

2021年6月7日(月)


『だから、皆さん、元気を出しなさい。』使徒行伝27章25節


パウロは上訴するため百卒長ユリアスに託され、地中海を旅してローマに向かった。
その航海中に一つの事件が起きた。
ユーラクロンと呼ばれるはげしい暴風にあい、船がいつ沈むかという恐怖のどん底に陥れられたのである。

そのときパウロは立って、元気を出しなさいとみんなを力づけた。

私は、今日のキリスト者の務めもこれだと示された。
さまざまな問題に満ち、どこを向いても希望がない今日の社会では、みなどう生きてよいかわからなくなっている。

それはユーラクロンのため生きる望みを失った人々と同じである。
そういう状況の中で立ち上がり、「元気を出しなさい」とみんなを励ますのがクリスチャンの使命ではないか。

失意と落胆、不安と恐怖におののいている人々をパウロは力づけた。
いまの時代もクリスチャンのすべきことはそれである。

どうすれば気力を失っている人々を力づけることができるか。
少なくともそういう恐ろしさから自由になっている者でなくてはできない。

その人自身がほんとうに暴風の力から自由になっているのでなければ、悩んでいる人々に元気を出しなさいとは言えない。

パウロはどうして、最後の望みもなくなったときにも望みを持ちえたのか。
彼は暴風の外に出たのではない。
彼も暴風のために最後の望みを失った者である。

しかし、そのどん底の中で、神の使いの言葉を聞いたのである。
それで人々に元気を出しなさいと言いえたのである。
絶望的な状況の中で、何を見、何を聞き、何に生きる根拠を置くかが重要な事柄なのである。

今日の状況から逃げ出そうとすることは不可能であるし、意味もない。
私たちは他の人々と同じ経済的な、思想的な、悪魔的な嵐の中に生き、その中で人々に元気を出しなさいと励ましを与えねばならない。

そのためには、どんな状況の中にあっても語りかけていてくださる天からの声に耳を傾け続けなければならない。

パウロは「わたしが仕え、また拝んでいる神からの御使が」と言っている。
パウロは神に仕え、拝んでいた。

拝むとはひれ伏すことである。
ひれ伏すとは自分は何もせずに、自分を神の御思いに任せきることである。
それが神に捕らえられるということである。

パウロは確かに神に捕らえられていた。
それゆえ、彼は恐慌の中でも、神からの声を聞きえた。
それを聞いたので、人々を力づけることができたのである。

この天よりの声を聞くことをせずに、いくらこの世のことに献身的にかかわっていっても、その人はこの世の人とまったく同じなので何も助けることはできない。

この世の人の聞きえない天よりの声を聞いてこそ、この世の人に力を与えることができるのである。

God Bless You!!


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