2021年6月19日(土)の手紙

2021年6月19日(土)


『神は、あらかじめ知っておられたその民を、捨てることはされなかった。』ローマ人への手紙11章2節


聖書を一貫している一つの流れは、神の選びである。
私たちが神に選ばれた者であるとは、神に覚えられているということであり、その名が天に記されているところにキリスト教信仰の喜びがある。

何のいさおしもなく、何一つ神のために尽くしたわけでもない者、数々の迷惑をかけた私の名が、天国には記されている。
そのことは私たちの大きな喜びである。
そして選ばれた者を、神は捨てるようなことはなさらない。

人間にとっていちばん望みがなくなるのは、死の時である。
しかし、その死の世界からの復活を信じる者は、絶望を持たない人種である。
クリスチャンは絶望を知らないのではなく、絶望を持たない人種である。

エリヤは現実を見て絶望したが、神はなお、そのところに隠しておられる宝を彼に示された。

役人がイエスのもとに来て、子どもを助けてくださいと求めた。
そのように私たちは、イエスに「してください」と求めやすい。

しかし、「お帰りなさい。あなたの息子は助かるのだ」とあるように、すでにイエスはなすべきことをしてくださっている。
その病を身に受け、ご自分が打たれた傷によって、私たちの病をいやされた、と過去形で言われているように、イエスはしてくださっているのである。

だからそこでは、何々してくださいと言うのはおかしいのであって、すでにしてくださった神に対して新しい生き方をしていくところに、私たちの信仰生活がある。

それは「恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない」という言葉と関連してくると思うが、ほんとうに私たちはイエスの行い……すなわち、いま何かしてもらうことを必要としない世界の中にいるのである。

イエス・キリストの十字架と復活という事件において、私たちに対してなすべき神の業は終わった。
すべてが解決されて、私たちのすることも神のすることも終わった。
だからイエスは十字架上で、すべてが終わったと言われた。
そこではただ神に感謝するだけである。

私たちはともすると、明るいことは神がしてくださったことで、暗いことは神がなさったことではないように思う。
だから暗くなると、早く明るくしてくださいと神に願う。

しかし、神は昼も、また夜も造られたかたであると聖書は告げている。
神が夜も支配しておられるからこそ、夜というものにも希望がある。

「わたしは問う、『彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか』。
断じてそうではない。
かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである」。

イスラエル人の心がかたくなにされたのは、異邦人の救いのためでもあった。
そこに暗さをも支配される神の目的があるのである。

God Bless You!!


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