2021年5月8日(土)
『イエスと弟子たちとがたびたびそこで集まった……。』ヨハネによる福音書18章2節
「イエスと弟子たちとがたびたびそこで集まったことがある」。
イエスはいかにしばしば、ゲッセマネの園で祈りをされたことか。
イエスのようなかたが、祈りを深くされていたことは、私たちにとって大きな励ましになる。
イエスのすばらしさは、神と自分との関係がはっきりしており、神から示されたことを語り、また行動されたところにあった。
しかしそういう生活のためには、絶えずイエスのほうからも神に対して祈りの生活をし、交わりを尊んでいった。
それがゲッセマネでたびたび彼らが集まったという言葉に示されている。
ここで学ばねばならないことは、イエスでさえ祈りのために時間をとり、所を定めて祈ったということである。
祈りの生活をしていく場合、いつでもどこでもと言っていたのでは、祈る時、祈る場所を失ってしまう。
ここで祈るのだ、この時に祈るのだと、やはり時と場所を定め、自分を規制していく必要がある。
自分から祈りたいと思って祈る祈りはいかにも実質的に思える。
しいられてとか、他律的に祈ることの中には、偽善とか形式にとらわれてしまう危険を伴う。
その反対に自分から進んで祈るのは、ほんとうの祈りだと考えるだろう。
しかし人間はそれほど神に忠実な存在ではない。
祈りの時と場所を定め、守ることによって、祈りの生活をしていくことができるのだ。
イエスでさえそれを示されたということを、謙遜に学んでいく必要がある。
ところがそのように神と共に過ごし、祈っているところに、イエスを捕らえようとする人たちがやってきた。
祈っていたらすべてがうまくいくと思いやすい。
祈っているのだがどうも思うようにいかないとか、お祈りはほんとうに聞かれるのだろうかとか、そういう声を聞く。
一生懸命祈っていると、祈りが神に届いているかどうか無関心ではおれなくなる。
詩篇の記者が、「神よ わたしの祈をきき、わが口の言葉に耳を傾けてください」とか、「主よ、起きてください。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください」と神を呼んでいるが、神の存在に自分の生活の基盤を求める者にとっては、神の存在は大きな問題である。
逆説的に言うと、神を疑うほど神を信じていかねばならない。
信じるとは不信との闘いなのだ。
その闘いなしに、信仰深い人間になれるはずがない。
人間が人間である以上は、神を信じることと比例して疑いが起きてくる。
自分のいっさいをかけていこうと思えば思うほど、神はこの祈りを聞いてくださるだろうかという思いを持つ。
そういうことを私たちは経験する。
ここでもイエスは神に対して血の滴るような汗を流し、祈っておられたときに、暗い手が伸びてきていた。
信仰は、悪魔とか試みる者との戦いであることを学ばせられる。
God Bless You!!
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