2021年5月25日(火)の手紙

2021年5月25日(火)


『主は、……そのめぐみの言葉をあかしされた。』使徒行伝14章3節


1節では「ユダヤ人やギリシヤ人が大ぜい信じた」とあり、2節では「信じなかったユダヤ人たちは異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに対して悪意をいだかせた」とある。

神の言葉が語られると、それを受け入れる者と、それに反発し立ち向かう者とに二分される。

私たちも神の言葉を聞くとき、自分の中に二つの自分、神の言葉を喜ぶ自分と反発する自分があることに気づく。
いったいどちらがほんとうの自分であるのかわからなくなる。

イエスは、嫁と姑が、息子と父親が、娘と母が仲たがいするようになると言われた。
それは単に互いがけんかをするということではなく、いままでの人間関係の中で別に何事もなかった人々の間にも、信じる者と疑う者との別が生じるということである。

「それにもかかわらず、ふたりは長い期間をそこで過ごして、大胆に主のことを語った。
主は、彼らの手によってしるしと奇跡とを行わせ、そのめぐみの言葉をあかしされた」。

聞く人が二つに分裂する、そのような状況の中で神の言葉を語っていくのが宣教である。
それは困難なことである。

人間が自分で語るだけのことであるなら、伝道ということはできるものではない。
人間の語る言葉に対して、神が共に働いて、証しを立ててくださるから伝道できるのである。

神の言葉が語られるとき、神が、私たちの思いや願いを超えて、その言葉を証しされる。
伝道とか信仰という世界は、そういう神が働いておられる世界なのである

5節から、パウロの受けた迫害が記されている。
たいていの人ならこのような迫害にあうと、そこから逃げだしてしまうだろう。
しかしパウロはただ逃げるのでなく、次々と福音を伝えていった。

ルステラではついに石打ちにあったが、再び立ち上がると翌日はもう福音を伝えている。
何事もなかったかのようである。

パウロにとっては福音が大きく、自分のことはまったく小さいことになっていた。
これがキリスト教信仰である。

どんな恐ろしい経験をしても、翌日は伝道しているというところに、イエス・キリストの僕の姿が証しされている。

「彼らは到着早々、教会の人々を呼び集めて、神が彼らと共にいてしてくださった数々のこと、また信仰の門を異邦人に開いてくださったことなどを、報告した」。

パウロの報告は、神が何をしてくださったかである。
私たちの証しすべきこともそれでなくてはならない。
あれだけの困難を体験したのに、ひと言も自分のことを報告しなかった。

パウロはローマ人への手紙で、キリストが自分を用いて働かせてくださったことのほかには何も語ろうとは思わないと言っている。
あの人がこう言ったとか、私がこうしたとかいう世界とはまったく違う。
証しとは、神が主語とならねばならない。

God Bless You!!


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