2021年5月18日(火)の手紙

2021年5月18日(火)


『ただ、その地を所領として授けようとの約束を……。』使徒行伝7章5節


第7章はステパノが捕らえられ、議会で裁判を受けたときの長い言葉を書いている。

ステパノはここでイスラエルの歴史を、アブラハム、ヨセフ、モーセの三人を中心に語っている。
この三人は、神に愛されたということで共通している。
彼らはいずれも、はじめはむしろ神の愛にふさわしくないような生活を余儀なくされた。
そういう中で彼らは神の祝福を受けていく。

アブラハムは、神から約束を受けた人である。
神が約束を与えられたときから、アブラハムの信仰は始まった。
その約束とは、彼が祝福の基となる、すべての人の父となるというものであったが、そのときの彼の現実は一歩の幅の土地すらなかった。

彼は神の約束に生きたのである。
これが信仰である。
現実に生きるのではない。
約束に生きるのである。

ヨセフは祝福を受けた人である。
ヨセフ物語を読むと「主がヨセフと共におられたので」という言葉がよく出てくる。
奴隷としてエジプトに売られてから宰相になるまで、さまざまの苦難を経験した。

しかし父や兄弟たちがエジプトに来たとき、ヨセフは彼らに、神があなたがたを救うために、私を先にエジプトに遣わされたのだと言った。
神なしには現在がありえないことに気づいていたからである。

神がどんなに私たちを愛し、祝福してくださったかということに目を注ぐと、人の言葉や仕打ちはほんとうに小さくなる。
そのとき、私たちもヨセフのように愛の言葉を語ることができる。

モーセは神に選ばれた人である。
モーセについていちばん心を打たれるのは、モーセが約束の地、乳と蜜との流れるカナンの地を見ながら、おまえはそこに入ってはならないと神に言われ、辛酸を共にしたイスラエル人たちから離れて、一人とぼとぼと山へ行って死ぬ姿である。

モーセの使命は、イスラエルの人々をカナンの地に導いていくことであった。
彼はこのために苦しみもだえながら働いてきた。
その大事業がいままさに完成しようとしている。
しかしその事業を完成させるのは彼の使命ではなかったのである。

私たちはともすると、私たちがこれをした、あれをしたと、自分の働きを考えやすい。
そうではなく、神にどのように真実に従っていくかだけが、私たちの大きな仕事なのである。

「彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた」。
ステパノは怒り狂う群衆からの迫害の凄惨な状況の中で、神の右に立っておられるイエスを見ることができた。
彼が天を見つめていたからである。

見つめるとは努力して見ることである。
自分にむち打ち、さまざまなものを超えて見つめるのである。
そこに天が開け、眠りにつくことができたのである。

God Bless You!!


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