2021年4月3日(土)の手紙

2021年4月3日(土)


『罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう。』ルカによる福音書7章49節


最初に百卒長の僕のいやし、次にナインの町におけるやもめの一人息子のよみがえりという、イエスの奇跡が記されている。
すなわち神の国の到来の事実を告げているのである。

百卒長の僕のいやしは、救いがユダヤ人だけでなく異邦人にも及んだということであり、やもめの一人息子のよみがえりは、イエスの恵みは死のかなたにまで及んでいるということである。

一人の罪の女の問題が36節以後のところに書かれている。
ここにもイエス・キリストの到来がどのような意味を持っているかが語られている。

まず、「するとそのとき、その町で罪の女であったものが」と書かれてある。
その犯した罪は過去のものであったが、食事を共にしたパリサイ人は、「それは罪の女なのだから」と、その罪が解決されていないことを問う。

ところがイエス・キリストが来られたことにおいて、もうすでにその人の罪は過去のものとなったのだ。

「それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。
少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。

多く愛したから、多くゆるされたのだというふうに、この女の愛が原因となって、罪がゆるされるという結果になると、私たちは解釈しがちであるが、それはまちがいである。
多く罪がゆるされているから、この人は多く愛したというのである。

「少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。

そのとおりである。
原因と結果を反対にしてはいけない。

多くゆるされたゆえに、多く愛するという結果が生まれる。
私たちがほんとうに罪ゆるされたということに気づかないところに、多く愛していくこと、ほんとうの献身は生まれてこない。

きのうある人が電話をかけてきて、私は日曜日が待ち遠しい、20年の信仰生活の中で、いまほど信仰生活が充実していると思ったことはないと言われた。
それを聞いて私はうらやましいなあと思った。

その人は礼拝ごとに多くの罪がゆるされ、新しくされるからこそ日曜日が待ち遠しいのである。
そして、そのところで、いろいろと人のために尽くしたいと言っていた。

キリスト教信仰とは、イエス・キリストによって贖われたことを信じるがゆえに、神のために栄光をあらわすべきであるという積極的な行動、姿勢が当然生まれてくるのである。

神の前に裁かれなければならない私たちが、イエスが死んでくださることによって、神の前に義とされた。
罪の女である者が、罪の女であったという世界が来たのである。
たとえその人がいまなお罪を犯していても、彼の罪はゆるされたのである。
そしてゆるされた人として、その人を愛していくところに私たちの生き方がある。

God Bless You!!


a:22 t:1 y:0