2021年4月14日(水)の手紙

2021年4月14日(水)


『また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。』


『沢崎堅造の信仰と生涯』という本を読んで感動したが、彼は「わたしは、かわく」という言葉を、神の言葉として聞いて、京大教授の地位を捨て、熱河(中国)伝道へ出ていった。

イエスがふり返り、「沢崎よ、さあいちばん渇いている人たちのところへ行こうじゃないか」と言われた声を聞き、彼は見たこともない場所へ、妻や子どもを連れ出かけたのである。

京大教授という恵まれた生活や将来を捨て、神の言葉に従い、38才の若さで召された。
それは自分で自分の命を縮める生き方であったとも言える。

しかし神の言葉が語られたとき、自分のすべてを捨てて御言葉に従おうというのが彼の信仰であった。

ノアにしても、ロトにしてもみな同じである。
みな、買い、売り、飲み、食べなどして、この世の生活を楽しんでいた。
そういうときにその生活から出ていけと神は言われた。

神の言葉に聞き従うことは、ある種の恐ろしさを感じながら聞くようでなければならない。
神の言葉と現実との間には、いつも大きなギャップがあり、私たちがそれを超えていくところに自分の負うべき十字架があるのだ。

私たちの現実の中で、神の言葉は必ず成就するのだと信じて生きていくために、どうしても必要なことは祈りである。

祈りとは、私たちが神に求めていくものだと考えがちである。
もちろんその祈りも大事であるが、祈りの根本は、願いや求めではなく、神の言葉に従って生きていこうとする者の、直面する困難や、不安の中から生まれてくる叫びなのである。

「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである」とあるが、それはまさに十字架上の祈りである。

あれほど神に真実に従ったイエスを、神は十字架につけ、苦しんでいるのを死ぬまでほうっておかれた。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」と、イエスは腸をえぐられるような思いで神に向かい叫ぶ。

この祈りは、神と真実に交わり、その言葉に従った者でなければ出てこない。
神に祈っているのか、人に聞いてもらっているのか、祈りかなにかわからない、あいさつのような祈りをする私たちにとって、祈りとは、祈る言葉とか、祈る時が問題なのではなく、私たちが神に対してどのような生き方をしているかが問われるのである。

神への深い信頼と真実の生き方からだけ、叫びの祈りは生まれてくる。

God Bless You!!


a:56 t:1 y:0