2021年3月9日(火)
『なんのためにこんなむだ使をするのか。』マタイによる福音書26章8節
6節から13節までは、高価な香油をイエスの頭に注ぎかけた女のことが記されている。
ユダヤの女にとって香油は非常にたいせつなものであり、生活の中で欠くことのできないものであった。
彼女はそれをイエスに注ぎかけたのだ。
弟子たちは「なんのためにこんなむだ使をするのか」と憤って言ったとある。
彼らには、イエスに自分の全部を注ぎ出すことが、むだ使いのように見えたのである。
このことは私たちの信仰生活にも言えるのではないだろうか。
いつもいいかげんにすまされ、自分の時間、能力、財産なども、これ以上ささげることはできないというところまでささげないで適当にというのは、むだ使いしないようにという思いがあるのではないかと思う。
しかしイエスは、真珠の商人が、ほんとうの真珠を見つけたら自分の全財産を売り払ってでもそれを買うと言われた。
この女も、商人が真珠を見つけたように、自分のために死んでくださるイエスを見ていたのである。
だからイエスさえいてくださったなら、ほかに何も要らないというわけで、自分のいっさいをささげたのだ。
私たちもイエスがもたらされた福音を知ったときには、こういう喜びや力に満たされることができると思う。
私たちの信仰はイエス・キリストにおける神の愛に根ざしており、それがはっきりしたときには、やむにやまれぬ気持ちで私たちもまた、この女がしたようなことをしていくのではないだろうか。
むだ使いとか、価値判断だとかいうことにとらわれないで、神が私たちを愛してくださったという、そのことだけが私のすべてとなってくるのだ。
この女の場合、いままで罪を犯し、その罪をなんとかしようと思ったがどうすることもできないで重荷に耐えかねていたとき、その重荷を引き受けて死んでくださろうとしているイエスの姿を見て、 彼女は自分のいっさいを注ぎかけた。
それが冷静な人々の目にはむだ使いに見えたのである。
私はキリスト教信仰の標準は、その人がどれだけむだなことをするかにあると思う。
ある意味では、この世の人から見ればばかなようなことを、どれだけ一生懸命にするかということにあるのではないかと思う。
神のために喜んで自分のものをささげていくことができるときを、お互いに持ち続けていかねばならないと思う。
God Bless You!!
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