2021年3月29日(月)
『主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか…。』ルカによる福音書2章15節
イエスの誕生についてルカは、まず、その年代から記している。
「そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た」。
ルカは、いつ、どこで、だれが、何をしたか、この四つのことを克明に記しているのだ。
しかし、ルカはそのような歴史的な記録を述べるために筆をとったのではない。
そのイエスの生まれた時代とは、権力や汚職がはびこり、支配者と被支配者が存在する世界、その只中にイエスが生まれた、神が介入されたということを語っているのではないか。
「主がお知らせくださったその出来事を見てこようではないか」。
キリスト教は、その神の出来事が根源である。
現実の只中に起こる神の出来事を抜きにして、それを語ることはできない。
私たちは、ともするとイエスを世俗的なことから引き離して信じ、あがめようとする。
たとえば教会でも、静かにオルガンが鳴って、おごそかな雰囲気の中に入ることによって、自分の心が清められ、ありがたいことと感謝する。
しかし、それではほんとうに、イエスをたたえていることにはならないのではないか。
イエスはそのようにこの世から離れて生きたかたではない。
「貧しきうれい 生くるなやみ つぶさになめし この人を見よ」と、具体的な生活の中に入ってこられたかたである。
イエスは現実のこの世に来られたのだ。
私たちはどんな問題に対しても、イエスは救い主であるという確信を持たねばならない。
ただ神よ、神よと唱えることが信仰深いことではなく、具体的な私たちの生活の中で神の御旨と御心とを信じて生きていくことが、神をあがめる生活であることを忘れてはならない。
教会は、政治や社会の問題には、かかわってはいけないと思ったり、言ったりする人がある。
確かにそれに一生懸命になって、イエスを忘れたのでは、本末転倒になってしまう。
しかし、イエスはこの世に来られたのである。
苦しむ者は苦しんでおれ、悩む者は悩んでおれ、わたしはそんなこととは関係はないというのでは、救い主ではない。
どんな困難や、苦しみの中にある者に対しても救い主であられるのだ。
そこにイエスの姿があり、神の子が肉を持って生まれたことの意味がある。
God Bless You!!
a:44 t:1 y:0