2021年3月12日(金)の手紙

2021年3月12日(金)


『神の子イエス・キリストの福音のはじめ。』マルコによる福音書1章1節


「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」。
マルコによる福音書はこの書き出しで、「見よ、わたしはわが使者をつかわす。
彼はわたしの前に道を備える」というマラキ書の3章1節に出てくる言葉の引用をもって始まる。

イザヤの書と記されてはいるが、実際はマラキ書の言葉である。
このマラキ書の3章は、世界の終わりについて書かれたものである。
この世はいまのまま永遠に進んでいくものではなく、神によって終わる時があり、そして新天新地が開かれる時があるというのが、聖書のこの世に対する見方である。

これがマルコの冒頭に引用されているところに、終わりから始まる福音の真理がある。

うっかりすると、私たちはこの世のことに熱心になるあまり、自分の力でこの世を支え、地球でさえ動かせるように思うことがある。
しかし、実際は神が世界を支配しておられるのであり、また、歴史をも支配しておられるのである。

もちろん、神がすべてを支配されておられるのだから、私たちはもう何もしなくてもよいということではない。
私たちは、この神こそがすべてを支配しておられるということを、未だ知らない人々に向かって語っていく責任があり、また神の御心がこの地上において成就するために、主の示された愛と正義、そして真理の実現のために働いていくのである。

しかしそれも決して最終の目的ではなく、きたるべき世の終わりまでの暫定的なことなのである。

どんなにすばらしい理念が語られても、実際の現実の世界はいろいろな問題を抱え、まちがいもあり、不徹底である。
これは人間の世界の真相なのだ。

人間がどんなに一生懸命知恵を尽くし、力を尽くしたとしても、完全無欠な理想世界のようなものはできない。
ただ、それはいまよりは少し良い結果を得られるのではないかということにすぎないのだ。
私たちのなすことは、常にほんとうの最終のものではなく、ほんとうの最後への一つの過程であることを忘れてはならない。

最後には、必ず神の裁きがなされるのである。
私たちは、そこに立っている信仰であることを、繰り返し思い起こさなければならない。

福音というものは、必ず世が終わり、新しい世界が来るという信仰の上に立つものであって、それがくじけてしまうなら、いったい福音とは何か、ということになってしまう。
だから「福音のはじめ」として、最初にマラキ書が引用されていることは、重要な意味があるのだ。

God Bless You!!


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