2021年2月13日(土)の手紙

2021年2月13日(土)


『ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。』マタイによる福音書2章3節


イエスがいつ生まれたかということを示すために、マタイは、ヘロデ王の代と記す。
そこには多分に象徴的な意味がある。

私たちの生きている時代、私たちの一生を考えると、順調なときもあり、またつまずいて、次から次へと問題が起きてくるようなときもある。

自分の意図のままにすべてが運ぶときもあれば、万事裏目に出て、自分が閉じ込められてしまうような感じのときもある。

イエスは、そんな私たちと無関係のところに生まれたのではなく、私たちが涙を流し、苦労し、絶望するその只中にお生まれになった。

そこにイエスの誕生の意味がある。

私たちのために神の子がお生まれになったということは、すばらしいことである。
ところが「ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた」とあり、「エルサレムの人々もみな、同様であった」と書いてある。

イエスが生まれたということは、ヘロデ王やエルサレムの人々にとっては不安なことであった。
博士たちも、イエスを拝みに行くとき、長い道中を考え不安を感じたのではないか。
祭司や律法学者たちも、ベツレヘムへ行かなかったのは、何か不安を感じたからだと思う。
ヨセフも、何の波乱もなく静かな生活がしたかったかもわからない。

しかし、マリヤが聖霊によって身ごもったと言われて心が痛んだが迎え入れた。
やっと子どもが生まれると、エジプトへ行けと言われて、知人もない外国へ、産後間もないマリヤと嬰児イエスを連れての旅には、不安があったと思う。

イエスの誕生は彼らそれぞれの不安となったのだ。

私は、イエスを迎えるということは、私たちの人生に一つの不安を呼び起こすことだと思う。
しかし、私たちが不安になるほど深くイエスを迎え入れなければ、イエスを信じたことにはならない。

木に竹を接ぐという言葉があるが、自分というものを持ちながら、そこへ異質のイエスを接いでいくような信仰では、命が通わない。
信仰とは、イエスを私の中に迎え、受け入れることであって、自分がその僕になることである

13節には「あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい」とある。
行ってみて、よかったらずっとおりなさいとか、いやだったら帰ってきなさいと言われたのであれば忍びやすいが、神の言葉はそうではない。
あなたに知らせるまでそこにいなさいと言われても、私たちはなかなか従うことができない。
しかし、ヨセフはエジプトへ行ったのである。

それは神を自分の主として生きていったということであり、御言葉に従っていくとき、主を仰ぎ見ることができたのである。

私たちは地上のことにのみ目を奪われるから、不安になる。
私たちはもっと大胆に御言葉に従っていくべきである。

God Bless You!!


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