2021年12月13日(月)の手紙

2021年12月13日(月)


『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。』ガラテヤ人への手紙3章13節


律法はモーセによって与えられ、恵みと真理はイエス・キリストによって与えられた、とヨハネは言っていますが、モーセが十戒を神より受けて、イスラエルの人々に示したとき以来、ユダヤ人は律法をもつ民族となりました。

彼らは、律法を行うことによって義とされる道を知ったのです。

ユダヤ人より見れば、異邦人といわれている多くの人々は、モーセの律法をもっていないとしても、その内心には良心の律法をもっています。
善を行うときには賞賛し、不義を行うときには譴責する良心こそ、それはまさに律法なのです。

律法はよいものです。
しかし、人を救うことはできません。
かえって、律法によって人の罪が明白にされるのです。

この律法のもとにある私たちを救うために、主イエス・キリストは十字架にかかられたのです。
それは、第一に、律法の要求よりの解放です。
「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」

律法は私たちに、その実行を要求してきます。
しかし、弱い人間は律法を破ってしまいました。
そして、律法の束縛の中で苦しんでいたのです。

しかし、主イエス・キリストが十字架におつきになったとき、「律法の終り」となってくださいました。
私たちは今、律法の要求に苦しむ必要はありません。
あのイエス・キリストの十字架によって律法の要求は終わっているからです。

第二に、律法ののろいよりの救いです。
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。

なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。

人は律法を破ったとき、神よりの審判を受けねばなりません。
それはのろいとなるのです。
ですから、律法は私たちにのろいを招くものとなりました。

しかし、主イエス・キリストが十字架にかかられたとき、私たちの身代わりとして死なれたことによって、私たちはこののろいからも解放されたのです。

第三に、律法の力より解放されたのです。
「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました」。

死んだ者には律法の束縛は及びません。
キリストが十字架で死なれたとき、私たちもキリストとともに死んだ者として、律法の力より解放されたのです。

使徒パウロは、彼の心の目が開かれて、主イエス・キリストの十字架の意味を理解した時、おそらくこおどりして喜んだに違いありません。
律法よりの解放、それこそ真に律法に生きようとしたパウロの喜びです。

主の十字架のゆえに真の自由、真の愛、生命の喜びを知った喜び、それは大きなものです。
これが「福音」でした。
これが彼を献身の道へと導いたのです。

God Bless You!!


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