2021年10月27日(水)
『すると、天から火が下ってきて……。』ヨハネの黙示録20章9節
いわゆる千年王国と、最後の審判について記されている。
前半の1節から6節までは千年王国についての黙示、7節から15節までが最後の審判である。
第一の死とは肉体の死であり、第二の死というのは魂の滅び、神の裁きを受けるということである。
そして「彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する」。
これが千年王国である。
千年王国が終わると「サタンはその獄から解放される。
そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する」。
このゴグ、マゴグというのは、キリストに反抗する地上の民一般をさすものと言われている。
ゴグ、マゴグが一致団結し、人間の力、悪の力を結集してキリストとその群れに対してやってくるが、そのときに「天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した」。
そこに神の支配があるということである。
この間ある人が、キリスト教も21世紀までは生き延びることはできないというようなことを言っていた。
その人には「すると、天から……」ということがないのである。
イエスが十字架につけられて、それで終わりであれば、その教えはみななくなってしまう。
死んだということはイエスの教えがなくなったことであり、人間の声が勝ったということである。
だから、結局この世は人間の声がすべてであるということになる。
ところがひとつの事件が起きた。
復活である。
弟子たちはイエスが十字架につけられるときには四散した。
そしてユダヤ人を恐れ、戸を閉め、おののいていた。
そういう彼らの上に、天から突然聖霊が下った。
彼らは立ち上がり、何ものをも恐れない信仰に生かされていった。
私たちの世界には「すると、天から」という現実があるのだ。
それを私たちは十字架、あるいは聖霊降臨ということの中に見いだしていかなければならない。
人間の力とか知恵では、ゴグ、マゴグに包囲されたら減んでしまうより道はない。
しかしそこに硫黄が降ってくる。
人間の思いとか経験とか予想とかいうものを超えたところから、神の側に立つ者に対する守りと祝福とが注がれてくる。
それがキリスト教の起こりであり、ペンテコステがなければ教会はない。
また復活がなければイエスの救いはない。
キリスト教は「すると、天から」ということに望みを置く信仰なのだ。
それが信じられなければ、それはキリスト教信仰ではなくて、キリスト教的な思想とか生活にしかすぎない。
「すると、天から火が下ってきて」ということはいくら人に説明してもわからない。
人から理解してもらえないような世界の中で生きていくのがキリスト者である。
「すると、天から……」。
それが復活であり、聖霊の降臨であり、私たちの信仰の根拠である。
God Bless You!!
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