2021年10月26日(火)の手紙

2021年10月26日(火)


『ハレルヤ、救と栄光と力とは、われらの神のものであり……。』ヨハネの黙示録19章1節


この第19章では、主の再臨、主の勝利の時が書かれている。
そういう勝利の時に、天において大いなる凱歌が上がる。
神が勝利されたのであるから、神を賛美していくことがふさわしい。

「すべての神の僕たちよ、神をおそれる者たちよ。
小さき者も大いなる者も、共に、われらの神をさんびせよ」

ローマで殉教していった人たちが、その苦しみの中で神を賛美した。
このことは当時の人々にとってよく理解できないことではなかっただろうか。

いろいろな問題が起きてきたときに、なおそこで神を賛美できる。
そこにキリスト信者の信仰の力、証しがあると思う。

忍耐すること、戦っていくことは、他の宗教や思想であってもできるであろう。
しかし異常な困難や苦しみ、死というような決定的な滅び、しかも抹殺されてしまうようなときにも、なお彼らは神を賛美した。

彼らは、どんなに人間が力や剣によって自分たちを抹殺しようとしても、神に勝つことはできないと信じ、神の勝利がいまそこに来ているかのように生きたのである。

大事なことはこれである。

私たちは敗北すると、そこで悲しんだり、恨んだり、ののしったりするしかないようになってしまう。
その悲しみが少なくなることや、あるいは悲しむのが少しおそかったりするぐらいのことがキリスト教信仰ではない。

それであれば倫理である。

あの人は少々のことでは怒らないというのがキリスト教信仰の実ではない。
怒らないのではなくて、キリスト信者は賛美するのである。

私たちは生きていく上で矛盾もあるし、暗さもある。
特に信仰生活をしていくのは、損な道を選んでいくことだと思う。

「自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」とのイエスの言葉に従うことは、自分から損な道を選んでいくことである。

イエスも賢く生きようと思えば33才で死ななくてもよかっただろう。
しかし神の御旨に従っていこうとしたとき、どうしてもその杯を飲まなければならなかった。

それは損な道である。

しかしその中にあって神を賛美し、神の勝利を信じていくときに、損な道が苦しみでもなんでもなくなる。
そういう生活を私たちは生きていきたいものである。
それが再臨を信じる者の世界なのだから。

God Bless You!!


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