2020年3月23日(月)
『わたしは自分の意志ではなく、わたしを遺わされた方のみこころを求めるからです。』ヨハネの福音書5章30節
神のみこころを求めるとき、導きが必要な事柄において、いずれかの方向に進みたいという先入観を自分自身の意思でもってはなりません。
私たちの意思はコンパスの針のようでなければならない。
コンパスがどの向きに置かれても針は北を指すように、私たちの意思も主に向いていなければならないのです。
論争の余地のある進路に向かいたいという欲望はたとえわずかでも、私たちが主のみこころを理解する妨げとなります。
ですから導きを求めるクリスチャンは、私たちの意思が主の御前でどこを向いているかを、主の光が啓示してくださるのを待つべきなのです。
何か先入観が発見された場合には服従する態度で・・・。
聖霊に満たされた生活には成熟した段階があり、そこではそのクリスチャンの意思は神と完全に一つになっているので、神のみこころのほかには欲望はまったくありません。
このことが意味しているのは、痛切なゲッセマネの経験や苦しみの中にあるキリストとのふれあいがずっと経験されつづけ、ついにはそのたましいが神であるキリストと一つになるということなのです。
クリスチャンは自分の意思をゆだねた時点で特別な注意を払うべきです。
なぜなら、しばしば自分自身の意思を神のみこころだと思いこんで求めてきた人が少なくないからです。
ジェシー・ペン=ルイス
クリスチャンは常に、啓示された神のみこころに服従する義務を厳粛に負っている。
その場の情況を、間違ったことをしたり、神の真理を無視したりするための言いわけにすることは、神の権威に従わない逃げの行動にすぎず、神を私たちの不従順の張本人に仕立て上げることである。
『砂漠の糧』
神の御手が、私たちへの限りない愛のみこころと調和することなしに働くことは、決してない。
ジョン・ダービー
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