2020年12月2日(水)の手紙

2020年12月2日(水)


『キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。』コリント人への手紙第二5章15節


クリスチャンは自分自身が存在する場所に、神の御子を迎え入れる。
キリストはそれ以降、私たちを満たし、私たちを占有し、私たちを専心没頭させる。

私たちにとって、以前は自分自身がすべてであったことが、今度はキリストがすべてとなる。

主は初めから終わりまで、ささいなことでも大きなことでも、すべてにおいて私たち自身に取って代わってくださる。
私たちが神の御前に立つときも、私たちの罪が赦されるように私たち自身の身代わりとなってくださるのである。

聖霊がまず最初にするのは、義と認められ、神に受け入られるために自分自身を退けることである。
そのために次に行うのは、私たちが受け入れられるための真の基盤として神の御子を示すことだ。

私たちはもはや、どんな形でも自分自身によって、あるいは自分自身のためになされたことによって……行いを改めた自分自身や、向上した自分自身や、苦行を行った自分自身によって、義と認められることを求めない。

ただ、私たちのために「死んでよみがえった」主イエス・キリストによって義とされることを求めるのである。

そして私たちが自分自身の代わりに受け入れたこの神の御子の内に、私たちの人生のすべての部分を通して、またすべての領域において、生きる目的を見出すのだ。

ホレイシャス・ボナー


キリストは、すべてのものよりも高い価値を置かれなければ、重んじられたことにならない。

アウグスティヌス


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