2020年11月14日(土)
『見よ。わたしはすべての肉なる者の神、主である。わたしにとって不可能なことが一つでもあろうか。』エレミヤ書32章27節
かつて私のクリスチャン人生において、疑問に思うことばかりでどうすればいいかわからず途方にくれていた時期がありました。
私みたいな困難に出会ったクリスチャンなんていやしない、と感じていたのです。
たまたまそのとき、とても霊的なクリスチャンだと思われていた女性が数週間ほど近くに滞在していたので、ある昼下がり、勇気をふりしぼって会いに行きました。
私は自分の悩みを一気に吐き出しました。
彼女が私に深い関心をもってくれて、私を助けるためにできるかぎりのことをしてくれると期待して……彼女は私の話に辛抱強く耳を傾け、途中でさえきったりはしませんでした。
ところが話し終わって一息つき、同情の言葉を期待している私に、こう言っただけだったのです。
「そうね、あなたの言うことはすべて本当だと思いますよ。
けれどそれでも、そこには神がおられるのです」
私はまだほかの言葉が続くのかとしばらく待っていましたが、それだけでした。
私の友であり師である人は、必要なことはすべて言った、という態度でいたのです。
「でも……」私は続けました。
「私の困難がどれほど深刻で大変なことか、きっと理解していただけていないのです」
「いいえ、理解しましたよ」彼女は答えました。
「でもね、私が言ったように、そこには神がおられるのです」
彼女からもうそれ以上の答えを引き出すことはできませんでした。
とうてい満足できる答えには思えなくて、とてもがっかりしました。
私だけの困難な経験は、「ええ、でも神さまがおられるのです」というようなそんな簡単な言い方ではとうてい片づけられるものではない、と感じていたからです。
もちろん、神さまがそこにおられることはわかっていました。
でも自分には、ただ神さまだけでなく、それ以上のものが必要なのだ、と感じていたのです。
結局、私の達した結論は、友人は霊的な教師としてはすばらしい評判だったけれど、私の問題にはちっとも対処できない、というものでした。
それでも、何とかわかってほしいという思いはとても強かったので、一度ためしただけであきらめることはできませんでした。
私は何度も何度も、彼女のもとを訪れました。
いつか、私の困難の重大さを理解するようになって、適切な助けを与えてくれるだろうという希望をずっと抱いて……。
何も効果はありませんでした。
いつも何に対しても、返ってくる答えは、ただ「ええ、わかるわ。でも、神さまはおられるのよ」
そしてついに、彼女が何度も繰り返し答えつづけた力によって、私は確信するようになったのです。
私の友は、人間の造り主であり贖い主である神の存在と、その人類の一員である私の存在という純然たる事実こそが、起こり得るすべての必要に対する十分すぎるほどの答えであると心から信じているのだ、と。
彼女がしょっちゅうそう言い、確信を持っているようだったので、私だけの特殊で抗いがたい必要についても、神は「十分である」かもしれないと思うようになりました。
そう思うようになってから、神は私の造り主であり贖い主なのだから「十分である」はずだ、と次第に信じるようになりました。
神によって完全にすべてのことに満ち足りることに、私の目が開かれていったのです。
私の悩みは消えました。
これまでもずっと神はおられたのに、あんなことで思いわずらっていたなんて、私はなんという愚か者だったのでしょう。
全知全能の神、私を造ってくださった神がそばにいてくださって、私を気遣い、しきりに助けようとしておられたのです。
神は「十分である」ことを、私は悟りました。
私のたましいは平安を得たのです。
ハンナ・ホワイトール・スミス
そんなことがあり得るだろうか。
神がある人間をたいそう愛されて、彼のために死ぬようにご自分のひとり子を与えてくださり、彼が神の恵みを請い願えば叶うほどまで愛してくださり、ついにはそのたましいをご自身の家族として獲得し、ご自分の聖なるご性質を分け与えることによって新しく造り直しておきながら、ご自分のすべてを与えて獲得したその者がそのあとどうなるかについて気になさらない、などということが。
ルイス・スペリー・チェイファー
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