2020年10月9日(金)の手紙

2020年10月9日(金)


『主がエリヤを竜巻に乗せて天に上げようとされたときのこと、……』列王紀第二2章1節


この世における私たちの命の長さは、神の御手の内にある。
私たちは、一年あるいは10年20年と地上に留まることを自分の意思で決められるような自由な寿命はもちあわせていない。

神のみこころによる寿命があるだけだ。

神に呼ばれたとき、エリヤは「天へ上って行った」。
列王記には、エリヤが自分の働きが完成したのを見て、今こそ天へ上っていく時だと決心した、とは書かれていない。

まったくそんなことではないからだ。
ただ、「主がエリヤを天に上げようとされたとき」とだけ書かれている。

私たちのいのちはエリヤと同じく、ひたすら神のみこころにゆだねられていることは間違いない。
そしてエリヤがそうであったように、地から天に上るように神に呼ばれたら、私たちには御手を押し留める力はまったくないのである。

チャールズ・E・カウマン


キリストの再来を待ち望んでいる人たちは幸せだ。

私たちの人生の砂時計は、自分で思っているほど長くはない。
時は私たちを思いどおりにするだろうが、それでも私たちは自分の天国が芽を出し、成長して収穫されることを知っている。

ではどうして、熱心に追いつづけようとはしないのか。
自分の寿命がわずか1インチにしか達しないであろうことは確かだと知っているのに。

だから私はあなたにキリストを、老年期の「杖」として薦める。
あなたの残りの日々を主にゆだねて、キリストがともに乗っておられる船に近づく嵐のことはもう心配しなくていい。

海に落ちる乗客は一人もいないし、嵐によって破壊された船も、船酔いした乗客も無事に岸に着くからだ。

私は、卑しい罪人が望み得るかぎりのすばらしいキリストとの親交を享受している。
それなのに、主があれほど美と公正さを備えておられるのに自分にはちっぽけな愛しかなく、主があれほど偉大な力とあわれみに富んでおられるのに自分にはわずかな信仰しかないことが、心苦しくてならない。

主のあふれる光がまぶしくて、私の目はかすむのである。

サミュエル・ラザフォード


a:82 t:1 y:0