2020年10月14日(水)
『あなたがたは、うわべのことだけを見ています。もし自分はキリストに属する者だと確信している人がいるなら、その人は、自分がキリストに属しているように、私たちもキリストに属しているということを、もう一度よく考えなさい。』コリント人への手紙第二10章7節
パウロはコリント教会の人々に対して、自分の目の前のことばかりを見ていると叱貢した。
霊的な近視状態だと、自分の手元しか焦点が合わないので、霊的な物事の領域において安易に納得し、満足しがちになる。
狭く小さな視野に甘んじ、神が考えておられるさらに多くのことを認識することができない。
限られた制約された範囲に安住することは、実にたやすい。
自分たちにとってひどく重要な、なじみのある霊的なことだけを考え、私たちを越えたところにあって、私たちを招いているもっと多くのことに気づかないのである。
クリスチャン生活において、自分たちの経験の狭い領域を超えたところには何もない、と決めてかかることほど無意味なことはめったにない。
それではきわめて近視眼的な、閉塞的な状態になりかねない。
ぐるぐると同じところを回りつづけて、神が招いておられる霊的な体験の新たな空間にも決して目を向けることなく、神のことばとキリストにあって神が抱いておられる目的とについて私たちが知るべきことはすべて知っている、と思いこむ危険性がある。
コリント教会の人々はどうやらこんな状態であったらしい。
すなわち、おのれ自身のことばかり、さらには自分の特別な霊的な賜物のことばかりに関心をもつあまり、霊的にはほとんど行き詰った状態に陥っていたのである。
彼らは自分たちだけを見つめ、その関心のすべては自分たちの集会に向けられていた。
それは間違ったことではなかったが、パウロの宣教の働きに象徴されるような神の大きな目的を理解することができないのは明らかだった。
神について明白に示され、祝福されていることですら、そのこと自体に関心を向け、注意を払いつづけるなら、妨げとなる可能性がある。
私たちはこうしたことに直面するが、それらを超えて主を見つめ、常に目先の要因を超えて、キリストの永遠の価値に目を向けるように造られているのである。
T・オースティン=スパークス
もしもこの時代のクリスチャンが陳腐だというのなら、それは彼らの信じている福音が陳腐だからではないのか。
真の信仰は、神中心の信仰である。
その違いは信仰にあるのではなく、信仰の対象にあるのだ。
もしも私たちが神の福音を本当に信じてきたのなら、一人ひとりが自分のために天からの啓示を受け取ったはずだ。
それは血と肉による人間が決して到達することのできない啓示である。
私たちは、そのことを心に刻みつけようではないか。
ロバート・アンダーソン卿
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