2020年1月7日(火)
『神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。』テトスの手紙3章5節
充足したキリストは空っぽの罪人のためにあり、空っぽの罪人は充足したキリストのためにある。
キリストと罪人は徳の面では互いにぴたりと合っており、空虚さを経験すればするほど、私は満ち足りた十分さを味わう。
私が自分の徳性や自分の善行や自分の優しさや自分の信仰心や自分の正しさに百パーセントの信頼を置いているかぎり、キリストを受け入れる余地はない。
これらのものをすべて投げ捨てて、初めてキリストを丸ごと理解することができる。
ある部分は自分で、ある部分はキリストだ、ということはありえない。
自分かキリストか、どちらかなのだ。
なぜこれほど多くの人が不確かさの闇の中に放り上げられ、投げ落とされているのかというならば、それはまだわずかでもおのれ自身に固執していることに一因がある。
もしかしたら彼らは、自分が「行った義のわざ」に頼っているのではないかもしれない。
だがそれでも、そこにはまだ保ちつづけて頼みにしている自分の何かがある。
それは被造物のこの上なく小さな原子(その被造物の状態や感触、適合する方法や経験であるかもしれない)が入り込むことによって、キリストを締め出しているのかもしれない。
いや、そうに違いない。
なぜなら、もしも完全なキリストを受け入れているなら、完全な平安を享受することができるからだ。
完全な平安を味わえていないとしたら、その理由はただ一つ、完全なキリストを受け入れてないからである。
C・H・マッキントッシュ
もしもあなたが、「自分にはこんな奉仕ができる、あんな奉仕ができる」と感じているなら、あなたは神に用いられる器ではない。
エドワード・デネット
神の力はクリスチャンの弱さにぴったり合っている。
そしてクリスチャンの弱さは神の力にぴったり合っている。
だから私たちは、互いに適合し合っているのだ。
『砂漠の糧』
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