2020年1月18日(土)の手紙

2020年1月18日(土)


『わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人かわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。』ヨハネの福音書15章5節


実とは何だろう。

実は、その木の命の余剰な部分。
その木自身が生きていくために消費するものに、さらに加えられた部分である。

実はその木の風味があり、木から離して与えることができる。
他の人に与える祝福のように。

イエスは、ぶどうの枝が木につながっているように私たちが主にしっかりとつながっているので、主のいのちが私たちに流れこみ、私たちを通して実となって現れることを示された。
すなわちそれは、私たちが主のいのちを適切に生きるということであり、私たち自身で使い果たしてしまうことではない。

しばしば言われるように、「クリスチャン人生を生きようと努めること」ではないのである。
それはなんと自己中心的なことか!

そうではなく、キリストのいのちのご性質そのものが、一新され明け渡された私たちの控えめな人格を通して、恵みを与えるすべての力とともに明示されるように、ご自身のいのちを私たちの内に実現していただくことなのだ。

もしそうした実を結ぶことができなければ、私たちが「キリストにとどまる」存在であることの目的は果たせない。
だが私たちが尽きせぬ源である主に留まり、主に近づいて、主が流れこんでこられるのにまかせるなら、その結果として主のいのちが流れ出て、「実」を結ぶことだろう。

留まることを私たちが学んでいくにつれて、しだいに実も増えていく。
だがキリストに満足していただくのは、いくつかの実が、豊かな多くの実となったときなのである。

ノーマン・B・ハリソン


霊的な体験に、静的なものは一つとしてありません。
本当のクリスチャンはすべて、成長するクリスチャンです。

実を結ぶことの目的は、キリストの栄光を現すこと。
枝は自分の栄光を現すために実を結ぶのではありません。
ぶどうの木の栄光を現すために、多くの実を結ぶのです。

けれども父なる神の栄光を現すことができるのは「多くの実」だけ。
それに足りないものはすべて、たとえそれが神に喜びをもたらし、神が楽しんでくださったとしても、父なる神の栄光を十分に現すことはできないのです。

ルース・パクソン


実を目的としたり、実のことを考えても、「実を結ぶ」ことはできません。
それは主イエスを目的とし、主を思うことの結果だからです。

主こそが、実に先立ち、実を生み出す唯一の“まことのぶどうの木”なのです。

ハンナ・ホワイトール・スミス


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