2020年1月11日(土)
『わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。』マタイの福音書10章37節~39節
十字架にかかられたお方に従う私たちは、人生を楽しく過ごすために、ここにこうしているのではありません。
苦しんでいる罪深い世界のために労苦するように、神に招かれているのです。
神よ、どうか私たちの恥ずべきためらいや、免れたいと願うことをお赦しください。
主は額に茨の冠をかぶせられたのに、私たちは自分の額を飾るためにバラの蕾を求めるのでしょうか。
主の両手は釘で打ち抜かれたのに、私たちの両手は宝石で飾られているのでしょうか。
主の両足は裸足で縛られていたのに、私たちの足は傷つかないようにそっと歩いているのでしょうか。
私たちは激痛の何を知っているのでしょう。
こぼれ落ちるまえにひりひりと焼けつく涙、張りさけるほどの胸の痛み、嘲り辱められることの、いったい何を味わったのでしょうか。
神よ、私たちの安易な愛をお赦しください。
主の人生とはほんのわずかも似ていない人生からでさえ顔をそむけることの多い私たちを赦してください。
地上の快適さや愛する人たちがそばにいることの喜び、財産や宝を崇拝せんばかりでいることを赦してください。
私たちの祈りは、自分の愛する者をゲッセマネへ、カルバリヘと、主に従うためにささげようとは考えもしないことがあまりにも多すぎます。
おそらくそれは、私たち自身がこれまで一度もそこに至っていないからなのでしょう。
エミー・カーマイケル
私は、自分の持っている、あるいは所有するかもしれないどんなものにもまったく価値を置かない。
ただ『キリストの御国』に関わるものを除いては…。
デービッド・リビングストン
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