2019年5月9日(木)の手紙

2019年5月9日(木)


『歌いながらぶどう酒を飲むこともなく、強い酒も、飲む者には苦い』イザヤ書24章9節


地上的なものによって安全を保証することは、神への信頼を妨げる最大の障害です。
もし私が「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。
さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ」と告白するとすれば、信仰の道は閉ざされてしまうことでしょう。

莫大な財産を保管している倉庫を火によって失うことは不幸なことです。
こうして長年にわたって蓄えられた資産が、一瞬のうちに消えてしまうことがあります。

しかし、実はこのような不幸な出来事によって、信仰への道を遮るものが取り除かれる、そんなことが起こり得るのです。
悲しみという祝福された斧が、地上的な慰めの太い木を切り倒すことによって、かえって神へと向かう道が整えられるのです。

私が「私は決して揺るがされない」と告白すると、見えない擁護者よりもむしろ、目に見える堅固な要塞が私の目を惹きます。
しかしそのとき、もし激しい地震が起こり、岩を揺るがせ、山は崩れ落ち、要塞が破壊されたらあなたはどうしますか。

ですから、信仰を堅くするためには動くことのない、変わることのない岩である主なる神のところに飛んで行かなければなりません。
世的な安心は信仰の最大の敵であり、それは聖なる力の結合を緩め、聖なる勇気の源である筋肉を切断してしまいます。

ロープが切り離されなければ、気球は決して飛ぶことはありません。
苦悩と苦痛が大きければ大きいほど、神に頼り、信じようとする思いも強くされるのです。

小麦がまだ殻の中に堅くとどまっている間は何の役にも立ちません。
脱穀されなければその本来の価値はないのです。

私は残念な告白をしなければなりません。
私の魂が平安で、物事が順調に進んでいたときは、試練と不安の最中にあったときのように、神の近くで生きていると感じることはありませんでした。
この世のパンが甘く味付けられ、美味しいバターが塗られていれば、病気になるまで食べまくることでしょう。

しかし、そのようなことが起これば、私たちの食習慣は世の力によって変えられてしまいます。
口が酢で満たされ、飲み物は苦くなります。
この世の井戸は甘い水で満たされています。

しかし、それは毒の水です。
私たちはその井戸の傍らにテントを据え、飽きるほど飲みまくることでしょう。
そして、ついにベツレヘムの泉の水を忘れてしまいます。

地上の水がマラの水のように苦くなるとき、私たちは病気と弱さを追い払うことができるようになります。
吠える犬が迷いがちな羊を羊飼いのところに連れて行くのと同じように、試練あるいは苦難が、私たちを主なる神へと導いてくれるのです。

God Bless You!!


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