2019年11月28日(木)の手紙

2019年11月28日(木)


『今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、』ペテロの手紙第一1章6節


試練は偶然にやって来るわけではありません。
それは、神が必要と判断されたときにのみ与えられるものです。

試練は慎重に配分され、慎重な知恵によって与えられます。
「試練」は、苦痛あるいは苦悩に代わることのできる実に適切なことばです。

私は私たちに降りかかる苦痛や苦悩を罪に対するさばきとみなしているわけではありません。
というのは、私の罪は主キリストの十字架においてすでにさばかれているからです。

むしろ、私は自分に与えられている苦痛や苦悩を、思いやりのある、無限に賢い父なる神の知恵ある判断によって与えられているものと考えています。

苦痛や苦悩がさばきと呼ばれているのは、それらが罰だからではなく、それらが思慮分別のある豊かな内容を含んでいるからです。

熱心で、エネルギッシュで、正直で、賢明な神のしもべが必ずしも事業で成功するとは限りません。
彼らはその目的達成のさまざまな過程において妨げを受けることがあります。
彼らの事業に対して影響を及ぼす思わぬ災難がその進行中に次々と襲いかかることがあるのです。

たとえ彼らが大量の金に変化する可能性のある仕事や取引に手を出すことがあっても、それが全く無価値なものに変化することがあるのです。

私たちは出来事の明確な原因を見いだすことも、あるいは、その理由を常に明らかにすることもできません。
「あなたのさばきは 大いなる淵」と言われているからです。

出来事は事実としては理解されるかもしれません。
しかし、理性の推理によってその本質を完全に解明することは私たちには不可能です。

ところで、私たちに理解できない苦難をどうして主はお与えになるのでしょうか。
なぜなら、それはその方が私たちの主だからです。

これまでのあなたのどのような経験とも関係なく、尊い神の御旨と比較されるなら、あなたはただの無力なひとりの子どもでしかないのです。

どれほど優れた知性をあなたはもっているというのですか。
あなたはどのようにして、あなたが理解できる方法で神が行動なさることを期待できるというのでしょうか。

その方が全知全能なる神であられることを忘れてはなりません。

それゆえ、たとえ私たちがそのことを十分に理解できないとしても、それが正しいに違いないことを心静かに感じ、理解することは幸いなことなのです。

God Bless You!!


a:80 t:1 y:0