2019年1月31日(木)の手紙

2019年1月31日(木)


『ダビデは全イスラエルを治めた。ダビデはその民のすべてにさばきと正義を行った。』サムエル記第二8章15節


昔の格言に、「労苦なしに、良い結果なし。
苦痛なしに、得るものなし。
臼で挽くことなしに、粉はできない」と言われています。

信仰に関しても同じことが言えます。
通常、神は祝福を与える前に私たちに祈ることを求め、豊かな恵みを与える前に、さらに熱心に祈ることをお求めになります。

恵みの扉をノックすることを神に許されるとき、そのこと自体が私たちにとってはすでに大きな祝福なのです。

神に嘆願してもその願いが実現しなければ、私たちはますます熱心になり、そして、ますますそのことに集中するようになるはずです。
そして、飢え渇きはますます激しくなります。

一度求めただけで、神からの祝福が速やかに与えられるとすれば、恵みの価値をあまり感じないでしょう。
恵みの扉の外に長く待たされると、より一層熱心に恵みを願い求めるようになります。
まず求め、捜し、そして大声を上げ、涙を流し、悲嘆のうちに、必死になって神からの恵みを求めるようになります。

私自身が忍耐して恵みを待ち続けることができなかったとすれば、苦悩の中で祈り求める人たちを慰めることは決してできないでしょう。
与えられた結果が良かったために、私は後になってそれまでの苦難や苦悩に対して、感謝することはあっても、不満を感じることなど何一つなかったのです。

もし苦しみの体験を公にしている多くの聖徒たちが飢え渇き、心が悲しみに満ちた状態にあっても、待ち続ける忍耐力がなかったとすれば、彼らが多くの祝福に満ちたことばを聖書に書き残すことはなかったでしょう。

苦難や苦悩という鋤が命の水を蓄えるために溝を掘り、深い貯水池を完成させるために、大いに用いられたのです。

祈りの応えを乗せた船がすぐに戻って来ないときは、それは、その船があまりに祝福に満ちあふれているために重くなり、スピードが鈍くなってしまったことによるのです。

祈りがすぐに聞かれず、遅れてその答えが与えられるときは、その答えが予想していたものよりもはるかに内容が豊かになっているからです。

果物にたとえられる祈りは、木の枝により長くとどまることによってさらに熟したものとなり、その実がより豊かなものとなるのです。

もしあなたが心に深い悲しみを抱きながらもなお熱心に扉を叩き続けるなら、後には聖霊に満ちあふれた喜びをもって賛美をささげることができるようになるでしょう。

ですから、扉が閉ざされているからといって失望してはなりません。
忍耐をもって扉を叩き続けなさい。
そして待ちなさい。
そうすることによって、より豊かな答えをいただくことができるのです。

God Bless You!!


a:188 t:1 y:0