2018年9月14日(金)の手紙

2018年9月14日(金)


『しかし、私は主を仰ぎ見…』ミカ書7章7節


ひとりの未信者の人が、敵意と軽蔑をこめて、キリスト者に尋ねました。
「君は自分を他人よりもましな人間だと思っているのだね」。

そこでキリスト者は答えました。
「ましな人間ではない。別の人間なのだ」。

別の人間。
それはきょうのみことばに的確に表現されています。

預言者ミカは、そのすぐ前の箇所で、この世のあらゆる秩序が破れ、あらゆる信頼が消えうせるさまを、次のような衝撃的な言い方で描きました。

「友を信用するな。親しい友をも信頼するな。
息子は父親を侮り、娘は母親に…逆らう」。
そしてそのあとに、「しかし、私は」と言うのです。

聖書には「しかし、私は」が、しばしば現れます。
ダビデは、「しかし、私は、豊かな恵みによって、あなたの家に行き」と主を賛美します。
彼は、 6節では「あなたは偽りを言う者どもを滅ぼされます」と語り、それに続くのが、「しかし、私は」です。

聖書の人物が頻繁に「しかし、私は」と語るのは、驚嘆に値することです。
すなわち「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見」ると言い、また、「しかし、この私は、あなたの力を歌います」と告白するのです。

「しかし、私は」。
それは高慢ではないでしょうか。
「キリスト者のパリサイ主義。高慢」という叫びが聞こえそうです。

けれども、キリスト者が「しかし、私は、ましな人間だ」と一度でも言うのであれば、それは高慢ということになるでしょう。

が、そうではありません。
いつも「しかし、私は主を仰ぎ見る」と言うのです。
主をたたえるのです。

主を知る者は、その点で「別の人間」といえるでしょう。

「しかし、私は…」は高慢ではなく、神の子どもたちが神に向かって歩み出す、常に新たな信仰の一歩です。

主よ。
しかし私はあなたを仰ぎ見ます。
わが救い主なる主よ。アーメン

God Bless You!!


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