2018年6月5日(火)の手紙

2018年6月5日(火)


『たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。』コリント人への第一の手紙13章2節


「今日のキリスト者のあかしが、こんなにも貧弱であるのはどうしたことか」。
これは何度も言われてきたことばです。

説教者についてだけではなく、何よりも私たち自身について考えましょう。
なぜ私たちのあかしには力がないのでしょうか。

最近、私は車の調子が悪くて困ったことがあります。
エンジンが熱くなると、いうことをきかなくなるのです。
修理工場では、どこも悪くはないと言います。
ところがある日、工場長が実際に走らせてみてようやく、隠れた故障のありかを見つけました。

今日のキリスト教全体にも、隠れた故障があるのかも知れません。
それはどこなのでしょうか。

きょうのみことばで、使徒パウロはそれを指摘して「愛がないなら、何の値うちもない」と喝破します。

人はイエスのあかしをすることはできても、それが自分の正しさを主張するためであり、人々への愛から出ていないこともあります。

しかしイエスご自身は実に人々を限りなく愛して、彼らのために十字架に死なれました。

人はまた、偉大な神の奥義を語ることはできても、失われた人々への愛に欠けることがあるのです。
しかもイエスがこの人々を永遠の滅びから救おうとされるのに、です。

人はまた、信仰において他の人々より抜きん出ていながらも、良き羊飼いである方が迷える羊を抱いたような、そのような捜し求める愛を、持ち合わせていないこともありうるのです。

教会よりも政治団体が優れた雄弁家を多く揃えていて、主イエスよりも冷蔵庫会社に有能な営業マンが多くいるかもしれません。

私たちももっとすぐれた説教家を要するのでしょうか。
有能な福音の営業マンが必要なのですか。

いいえ。
必要なのはもっと多くの愛です。

主よ。
聖霊の実である真正の愛を、私たちにお与えください。アーメン

God Bless You!!


a:287 t:1 y:0