2018年6月21日(木)の手紙

2018年6月21日(木)


『愛は…、不正を喜ばず…。』コリント人への第一の手紙13章4節、6節


そうです。
愛は不正を悲しみます。

この「不正」ということばは、とても幅の広い意味を持っています。
ラテン語訳の聖書では「面倒」とか「不当」を表します。

ゲーテは『ファウスト』の中で、復活祭に散歩をするひとりの市民にこう言わせました。
「日曜日や祭りに、戦の話をするほど愉快なことはない。
遥かかなたのトルコの地で、国と国とが戦っているときでさえ…」。

そうです。
それらが自分にかかわりのない限り、世の不正、不都合、冷酷さは、いとも容易に楽しい話の種になることでしょう。
ところが、いざ自分にふりかかるとなると、私たちは大あわてで、防御閉め出しに回ります。

1945年、ドイツの強制収容所でのユダヤ人への恐るべき残虐行為が世界に知れ渡ると、多くのドイツ人が「知らなかった」と言いわけをしたのです。

しかし神の子どもたちは、世の冷酷を前にして心を痛める人々です。
神の御子はこの世に来られて、罪に堕ちた人間の悲惨を見て「かわいそうに思われました。
そのために主は、十字架の上で心を裂かれたのです。

この主イエスのものとされた神の子どもたちは、聖書の言うとおり、主のからだの各部分です。
それゆえに彼らは、イエスとともに世の悲惨を悲しまずにはいられません。

中国の飢餓を知らされて、年老いた、目の見えない祖母が大きな衝撃を受けた姿を、私は忘れられません。
まるで自分の苦しみのように、彼女はこの惨状を神の前に携えて行くのでした。

私たちがイエス・キリストのからだの各部分であるならば、主とともに世の重荷を負う者でもあります。

主よ。
私にも、憐れむ心をお与えください。アーメン

God Bless You!!


a:145 t:1 y:0