2018年5月30日(水)の手紙

2018年5月30日(木)


『人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。』使徒行伝11章18節


私たちは幾たび、閉ざされた自分の人生の扉を前にして、腹を立てたり嘆いたりしたことでしょうか。

しかしどのような扉に比べても、神の国の門ほど広く開かれているものは世にないことを、私たちは知らなければなりません。

イエス・キリストの最初の群れはそれを知りませんでした。
「異邦人でもこの門を入ることができる」とペテロから初めて聞いたときに、彼らからは神への賛美がほとばしりました。

異邦人も、無神論者も、自分を無価値と思う人も、自分を神の国にふさわしくないと思う人も、だれもがこの門から入り得るのです。

「異邦人にも」。
神の御子が私たちのために十字架にかかられて以来、このみことばは、神の国の門がいかに広く開かれているかを、示し続けています。

しかし同時に、この広い門が「狭いくぐり戸」でもあることは注目すべき事実です。

この戸は「悔い改め」ということばの中に立っています。
主イエスは言われました。
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く…」。

狭い門は「悔い改め」の狭さを表します。
悔い改めとは、古い生活からの方向転換です。
神なき生活、神の基準を持たない生活、世の霊に従う生活、神の聖霊を無視する生活、自己義認と罪の生活。
これらからの方向転換が悔い改めです。

それは大きな第一歩です。
重大な決断です。
そして、それはまことに狭い門なのです。

この大いなる門はすべての人に開かれています。
が、そこを通って入って行く人は、それが狭い門だと悟るのです。

主よ。
私たちを、そこを通って入り行く者にお加えください。アーメン

God Bless You!!


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